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住宅営団復刻資料刊行記念シンポジウム
 

<プログラム>

第1部 挨拶
司会:安藤元夫(近畿大学)
  「住宅営団復刻資料の刊行を終えて」
広原盛明(西山記念文庫理事長)
  「内田文庫のできるまで」
内田祥哉(東京大学名誉教授)
  「住宅営団資料の現代的意義」
鈴木成文(神戸芸術工科大学学長)
第2部 シンポジウム
  「東京・大阪・ソウルの住宅営団団地の
   半世紀を検証する」
 コーディネーター 大月敏雄(東京理科大学)
 シンポジスト
  「蕨の営団住宅地」
在塚礼子(埼玉大学教授)
  「住宅営団大阪支所の住宅地開発」
塩崎賢明(神戸大学教授)
  「ソウルの住宅営団団地の現在」
冨井正憲(神奈川大学助手)
第3部 懇親会



住宅営団復刻資料刊行記念 シンポジウムの記録
東京・大阪・ソウルの住宅営団団地の半世紀を検証する

 日時 2001年7月13日(金) 13:00から
 場所 日本教育会館(学士会館南側) 地図
 主催 NPO法人 西山夘三記念すまい・まちづくり文庫
 共催 日本経済評論社

 3年前から西山夘三記念すまいまちづくり文庫の「住宅営団研究会」で作業が進められていた『戦時・戦後復興期住宅政策史料 住宅営団』(日本経済評論社)全6巻18分冊が、2000年6月から2001年3月にかけて刊行された。これを記念し、シンポジウムが西山夘三記念すまい・まちづくり文庫主催、日本経済評論社後援により開催された。
会場には、猛暑にもかかわらず約100名の来場者が訪れ、戦時住宅政策及び住宅営団に対する一般の関心が予想以上に高いことがわかった。
本シンポジウムは、大きく3つのパートに分かれて行われた。
第一部「挨拶」では、同研究会主査の広原先生、本復刻資料の一部資料提供元である東京都公文書館内田祥三文庫の資料提供者である内田祥哉先生、住宅計画学者として営団住宅と深く関わりのある鈴木成文生からご挨拶を頂いた。
第二部「東京・大阪・ソウルの住宅営団団地の半世紀を検証する」では、埼玉県三和町(蕨)団地の報告を在塚礼子先生に、大阪支所における団地の実状を塩崎賢明先生に、韓国・台湾の住宅営団の実情報告を冨井正憲先生にしていただき、フロアを交えて戦時住宅政策研究・住宅営団研究の意義と今後の方向性についての議論がなされた。
第三部では、シンポジウムにおいてご発表いただいた先生と、今回の復刻作業にご協力いただいた水田喜一朗氏、富安秀雄氏を来賓としてお迎えし、その他西山研関係者、住宅研究関係者、その他総勢30名の多彩な顔ぶれで行われた。
 また、当日は今回の資料復刻に際して研究会のメンバーによって書き下ろされた様々な論点からの住宅営団資料に対する解題16編と、復刻資料目録を収めた単行本『幻の住宅営団』(日本経済評論社、3600円)のお披露目もあった。
 なお、「住宅営団研究会」のメンバーとプログラムは以下の通りである。
 以下は、本シンポジウムの第一部と第二部における各発言者の内容を主催者側で要約したものである。

第一部 挨拶
(1)住宅営団復刻資料の刊行を終えて

 この住宅営団復刻資料は、いろいろな方々の熱意や、出会いの中で生まれたものです。研究会メンバーがそれぞれの担当となり資料を編纂し、解題を書くという形で第1巻から第6巻まで、昨年の6月から今年の3月までの約8ヶ月間で、18冊の資料を出すことができました。本当に感謝に堪えません。
 このような歴史資料が世に出るということは、ある時代の転換期にあるということが大きいような気がします。日本の20世紀、とりわけ戦後は高度成長期であり住宅政策・住宅計画・団地開発という類のものが怒濤のごとく発展した時代でありました。そういった意味でこのような営団の研究・仕事をしたということは大変幸せな経験だと思ってます。しかし、それと同時に、戦後の体制が現在、全体の中で大きな壁にぶつかっており、20世紀の成果を如何に検証し、理論的・実践的にどのように21世紀に発展させていくかが迫られていると思います。
 私が若い頃は、理論と実践とが結びついており、現場で提議されることを調査・研究し、再び現場に戻す時代でありました。しかし今日の若い研究者は新しい流れをつくっていかなければならず、20世紀を振り返る必要がある重要な時期なのではないでしょうか。先日、東京で開かれた西山文庫の企画展で、藤森照信先生が一昔前の資料は西洋近代のコピーであり保存価値はないが、近現代の資料は日本独自のアプローチや視点で調査・研究・計画を展開した時代であるので、資料を残す意味があるとおっしゃっておられました。そういった面が今回の資料を残そう、活かそうという根本的なところに影響しているのではないかと思います。
 今回は資料編纂にエネルギーを費したため、資料を活かして新しい研究を開いたり、理論をつくるというところまではいきませんでしたが、それはむしろ今日来られているような若い人たちにバトンタッチしたいと思っています。既に冨井先生や大月先生のように、今まさに研究されている方もいらっしゃいますが、これだけの膨大な資料は若い世代の人が新しい感覚で、新しい観点の中で見ていただき、再びよみがえるものがあるのではないかと思っております。そういった意味で今回の資料を残せて良かったと感じています。
 最後になりますが、今回住宅営団復刻資料が刊行できましたのも、内田祥三文庫、西山記念まちづくり文庫がそれぞれ違う資料を収蔵しており、かつ冨井先生が収集なさった海外資料により全てがひとつになったからだと思っております。このように様々な努力の中で完成した資料ですので、是非見ていただきたいと思っております。

(2)内田文庫のできるまで
 私のところにあった資料は、現在東京都公文書館に内田祥三資料として収蔵されています。戦争中に東京大学が空襲にあうということで、山梨県に疎開しまして、これによってかなりの本の分類や、整理が混乱してしまいました。
 1945年4月頃、戦争が終わり東京大学に帰ってきましたが、家の方を進駐軍に接収されており、ほとんどの部屋が使えない状態でした。資料はそのまま大学に放置されておりましたが、1972年に父(祥三)が亡くなりまして、これからが保存の段階に入るわけです。
 まず最初に、「東京大学百年史」をつくる際、東京大学から資料を調査にこられまして、これらは歴史の先生にお貸ししました。この時に資料整理を担当なさったのが弥永さんという方で、毎日家に来てこの目録をつくって頂きました。東大に移してから6年で最初の資料目録が完成したわけです。
 それから資料というのはこのようにまとめるというのがわかったのですが、まだ段ボールの箱から崩れた資料が山のようにありました。そこへ東大都市工学科の川上秀光さんが、東大の図書館の奥に膨大な都市区画整理の図面があるのを発見され、自ら学生を動員して調査をされ、そのリストをつくってくださった訳です。その後、今度は自宅の方の資料を私の研究室の学生を動員して包装資料をつくります。これで資料の全貌が掴めたわけです。
 そのあと川上さんがこの資料を公文書館に渡したらどうかと提案くださり、橋渡しをしていただきました。当時、職員(司書)の田沢さんという方で、非常に熱心な方でした。そして今度は公文書館で一括して寄託する契約をしました。それから公文書館の活動が始まる訳ですが、東大百年史の資料と交換をする交渉をしてくださり、田沢さんと弥永さんとで、資料の交換を提案されました。東大には評議会その他必要なものだけを残し、公団・営団・住宅関係の資料は公文書館に移しました。そこから公文書館が目録を作り始めまして、1989年に「内田祥三資料目録T」を、1995年に「内田祥三資料目録U」を完成されました。
 こうやってみますと、東大百年史の伊東さん稲垣さん、それと公文書館に話をつないでくださった川上さんのお仕事が非常に大きかったです。またその後の、公文書館の精密な調査により目録をきちんとつくって下さいました。
 公文書館には目録がありますので、これからも是非活用していただきたいと思っております。

(3)住宅営団資料の現代的意義
 「現代的な意義」というのが果たして営団資料にあるのかはわかりませんが、歴史的、時代的な意義はあるのではないでしょうか。歴史として残すというのは、現代にそれがどう役立つかということを加えてこそ意義があると思います。
 住宅営団については、私には個人的な体験があります。その一つは、自分の学生時代に実際に見てきた営団の記憶として残っているもので、私の住宅計画研究の出発点でもありました。当時は住宅計画に関する研究論文が大変少なく、西山先生がお書きになった住宅営団に関する本などを熟読しました。その後ずいぶん経って、私が研究指導した韓国からの留学生の朴勇煥さんや李賢姫さんなどが、韓国において旧朝鮮住宅営団が建設した「日式住宅」が解放後どのように住まわれてきたかを研究しております。こうした成果は李さんの博士論文『韓国の「日式住宅」に見る住文化の持続と変容』や、『異文化の葛藤と同化』(都市住居研究会、建築資料研究社)にまとめられています。このような実体験を通して私は住宅営団を非常に身近に感じております。
 私は、災害の後には必ず住宅の新しい芽が生まれると思っています。実際に日本では関東大震災の後には同潤会アパートができており、戦時期窮乏の時代に住宅営団ができています。住宅営団は考え方として型計画の理念をもち、さまざまな議論が交わされ、住まいの設計の基準をつくりました。また、戦災のすぐ後には都営高輪アパートによって不燃・積層の公営住宅ができ、新しい住宅タイプがでてきました。その後の高度成長期においては、ニュータウン・住宅の高層化がおこなわれましたが、それらは本当の生活レベルという意味で新しいものであったかどうかは疑問ではありますが、変化してきたことは事実です。こうした中で、オイルショックの不況時代にできた水戸六番池住宅も、ある意味で危機の時に生まれた新しい提案だと考えることができます。しかしながら6年前の阪神淡路大震災ではそういった新しい芽は出なかった気がします。耐震性・安全性ばかりが唱えられ、新しい住宅計画は残念ながら生まれなかったと思います。そうした意味で現在のような危機にこそ何か新しい提案が生まれてくることを期待しております。
 一方で、歴史的に意味のある資料を出していくことには大変価値があることだと思います。資料ではっきりしているものだけが歴史ではなく、歴史というものをどう見るかが大事であると私は思います。残されたわずかな資料をもとにそれらを解釈し、面白い話が歴史となるのではないでしょうか。今後、この復刻資料をもとに解釈を進め、面白い歴史をつくることが大事なのだと思っています。

第2部 シンポジウム
東京・大阪・ソウルの住宅営団団地の半世紀を検証する
(1)蕨の営団住宅地
 今回取り上げます蕨穂保作住宅は、住宅営団東京支所の初年度の計画であり、関東で3番目の宅地規模の団地であります。計画敷地は平坦な土地で、営団としては計画し易かったのではないかと思われます。街区構成は、卍型の街路形態を有する宅地割りで11の区画ごとに公園をつくるといった、他では実現しなかったような形になっているのが特徴です。
 全体の計画ではきめ細かな道路計画がなされ、託児所・浴場・市場予定地などの配置もあったようです。住戸計画としては、計画図では886戸が配置されており、造幣廠や軍事工場、その他細かく区分され、いくつかの会社の社宅として住み始められたようです。住戸は広さが4タイプあり、11の地区は1戸建ての地区と2戸建ての地区にはっきりと分かれています。計画当初3ヶ月で竣工予定であったものが、1年以上かかったため、建設の初期と後期では図面上で表現されない外部仕上げ等の細かい変更があったと思われます。三和町(蕨)住宅地は、昭和17年から建設が始まり、昭和18年から入居が始まりました。今までの三和町の変遷を以下の4つに分けることができると思います。
・戦中戦後期:払い下げまで(S.17〜27)
・環境整備期:払い下げ後(S.27〜45)
・転換期  :建て替えの進行(S.45〜56)
・周辺との一体化:三和町会の解散以降(S.56〜現在)

 最初の10年間は、戦争などで非常に大変な時期でしたが、払い下げに至るまで、住宅地としての基礎ができる期間でありました。次の20年間は、水道・ガスといったインフラが再整備され、都市基盤ができた期間です。次の10年間は、高度成長期になり、建て替えが進行していった時期であり、また、行政主導のまちづくりといった変化が起こりました。最後の昭和56年以降は、それまで続いてきた三和町会というものがなくなり、周辺のまちと一体化していった時期で、現在まで続いています。
 この住宅地で変わらなかったものは宅地割りで、他の住宅地に見られるような細分化があまり見られませんでした。それは宅地規模が小さかったことに起因すると思いますが、宅地規模の持続性という側面からは、結果的に良かったのではないかと思います。
 逆に変わったものは、地域生活の共同性というのがあります。三和町会というものがなくなり、地域の歴史性などが失われてしまうという残念なことがありましたが、団地全体として見ますと、周辺に好影響を与えつつ変化し、周辺に溶けていったような在り方も評価できるのではないかと思います。

(2)住宅営団大阪支所の住宅地開発
大阪支所は営団設立の1週間後に設立、近畿地方を中心に中国地方(山口除く)を管轄していました。
大阪支所の開発規模は一概に言うことは非常に困難ですが、昭和18年11月の資料「一般会計住宅経営状況調書」によると、大阪支所の宅地開発は全国のおよそ23%を占める規模であります。
 大阪支所が建設した団地の数は103程度ありますが、それらについて当時の所在地と現住所の確認を行いました。分布については、大阪だと郊外地につくられている場合が多く、逆に、京都・奈良・兵庫のような周辺都市の場合は比較的駅から近い場所に住宅が建設されていることが判りました。
 大阪支所の一団地の敷地規模は、最小のもので14戸、最大で680戸であり、100〜200戸程度の規模が一番多くあります。住宅タイプは1戸建て、2戸建て、4戸建て(長屋方式)と立体4戸建ての4タイプあり、一番多いのは2戸建てで、約6割を占めています。その他は3割が1戸建てで、この2タイプで計画されている場合がほとんどでした。
 103団地のうち25団地を、戦後から現段階まで住宅地図や地形図を使って比較したところ、敷地の分筆、合筆についての変化の傾向を見ることができました。分筆・合筆の傾向はほぼ同じぐらいで、若干ですが合筆の方が多く観察されました。
 私が調査した営団住宅団地は、現在でも専用住宅地として使われているケースが8割強であり、住宅営団の敷地や道路パターンは現在も残っていました。メインの道路があったり、植栽が豊かであったりと、戦後に建設された住宅地とは違い、ひとつの核として地域に存在し、比較的良好な住環境を保っているように思います。また営団団地が周辺地域に対しても良い影響を与えているのではないかと思います。

(3)ソウルの住宅営団団地の現在
台湾の住宅配置は広場が中心にあり、その周りに区画された宅地があります。それが半世紀経った現在、中心の広場は市場になり、当初の宅地が短冊型に分割され、住宅戸数が計画時の4倍近くになっていました。住戸は伝統的なショップハウスの形式に建て替えられており、これが台湾のひとつの特質だと思います。短冊型に分割された要因として、台湾の営団団地の一区画の大きさが、日本や朝鮮に比べ、大きかったことが挙げられます。また台湾の別の地域では、建設当時の姿のまま残っている営団住宅もあり、それらは現在、公的機関の所有となっており、税務署の職員が社宅として住んでいます。
台湾の場合、旧台湾住宅営団の資産を国が引き継ぐことで、豊かな住環境を保ち続けることが容易であったこと、そのために、再開発の際にも問題が起きにくいという特徴を挙げることができます。
中国の営団団地の例では、建設当時は中空街区、中庭スタイルの連立住宅であったものを、一括して大空地にして再開発を行っています。中国の場合は、国が土地を所有するようになったため、再開発がスムーズに行えました。台湾のように払い下げたり公的資産にしたりという場合と、中国のように社会主義の中で一切払い下げずに再開発するのとでは違った現況を伺うことができます。
 ソウルも日本の蕨穂保作住宅と同じように、中心に大きな広場を設けています。周辺には戸建て住宅、中心には連立住宅を配置した形になっています。団地構成についてもスケールの違いこそありますが、日本と類似する点が多くあります。現在ではもともと広場であったところが朝鮮動乱時の難民達の占拠によって、建物で埋まってしまったり、住宅が道路にはみ出したりと、当初の街区計画・公園計画が継承されず、住環境は悪化しているようです。この要因として、戦後の払い下げにより土地の権利が錯綜していることが挙げられます。
一方で、旧営団団地の周辺環境は、建て替えが進み、既存の市街地がアパートなどになっていますが、再開発に着手できない旧営団団地のみが残されている状態になっています。こうした状況は、10年前に訪れた様子と1週間前に訪れた様子とを比較すると、さらに顕著であることがわかります。
 以上のように日本住宅営団、朝鮮住宅営団、台湾住宅営団、関東州住宅営団の営団団地の比較を行うことで、各国の住宅営団の組織が当時どういうものをつくり、それぞれの国で半世紀経った今、各国の住宅政策・都市政策の中で異文化の中でどのように変化していったかを伺い知ることができます。

(4)ディスカッション
大月:今日ご報告なさった調査研究において、どのような歴史的観点を大事になさりながら研究を進めてこられたのか、そして、今回復刻された資料を使いこなしながらさらに研究を進めていく上でどのようなことが課題になるのかについてお答え下さい。
冨井:日本と韓国の住洋式などの比較文化は進んでいますが、団地という住宅地の変容という視点から見ると、日本の中だけで見ていくと解りづらいことも比較研究することでおもしろい視点が見えてくることもあると思います。是非今の若い人たちには、そうした視点で留学生などとも協力しつつ積極的に海外に出てやってもらいたいと思います。
塩崎:営団団地が周辺との関係でどういう風に成長してきたのかを、ちゃんとトレースするのが今後残された課題として重要と思います。
 また、九州・名古屋・仙台では、大阪よりも営団の住宅が残っている可能性が高いと思いますので、それぞれの地方(支所)で行われた住宅地開発の実態とその後の変遷について、全国レベルで研究が進んでいくことが望ましいと思います。
在塚:様々な社会状況の中で住宅を捉えると、個々の住まいを良くしても、「住むということ」が良くなるわけではないと思います。良い地域社会、良い住宅地を造るという視点が大事だと思います。今日は、三和町における個々の住まい方に言及できませんでしたが、最初の住宅地計画と住み手の働きかけの意味を考えていきたいと思います。
大月:今回のシンポジウムは都市計画、住宅計画学・住居学、比較居住文化学という視点から営団というひとつの歴史的な団地を巡って、あまり一般には知られていない団地の現状をビジュアル中心に発表していただきましたが、この他にも住宅政策史、建築史、技術史といった視点での考察を今後やっていかなければならない課題だと思います。
 営団の建設請負方式の課題、個々の技術を担った人のその後の活躍などは、既に菊岡先生が着手しておられますが、例えば、住宅生産技術史という意味で、戦時中の住宅営団が取り組んだ様々な住宅生産技術がどのような形で、戦後継承されきたのかという課題も残っているのではないでしょうか。また、代用品の研究など、環境問題がクローズアップされている現代においてこそトレースする必要があると思います。
 そうした技術的側面からのみならず、住宅政策、その一支点としての住宅運動については、大本先生、森本先生、前田先生が今回取り組まれておりますが、営団解散直後の払い下げ・住宅運動に考察を加えてくださった前田先生に今後残された研究上の課題等について、一言お願いしたいのですが。
前田:私は閉鎖後の営団をまとめていて気になったことがたくさんあります。一つは営団の払い下げ時の借家人運動についてで、借家人の動向を詳しく調べてみたいということです。もう一つは、営団の職員がどのように動いていたかというのが非常に気になるところです。それが明確になれば営団の閉鎖に関しても、生産技術が地方の公営住宅・公社にどう活きてきたかが解り非常におもしろいのではないかと思います。このように様々な点でやることはたくさんあり、若い学生もいることですし、是非みんなでやっていければと思っております。
大月:海老塚先生から、営団住宅を物としてどのように次世代に継承するかという問いかけがございましたが、実際に住都公団の試験場に同潤会アパートの移築を担当された志岐さんに、実務的な視点からお願いします。
志岐:今回の復刻資料の刊行により、住宅営団の資料に近づけるようになったことの意義は大きいと思います。また、前田さんもおっしゃいましたが技術的なものが、書類や人などによってどのように流れたかということに強い関心があります。営団閉鎖後、昭和30年代から公団を中心に住宅構法が続いていくわけですが、そこに繋がっていく戦後20年の構法的取り組みを含め、未だに抜けている部分があるので、そこが埋まると非常におもしろいのではないかと思っています。そうした中で当然物として営団住宅をどのように継承していくかが重要な課題になることは間違いないと思います。
(記録:東京理科大学大月研究室   文責:大月敏雄、北山哲)

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