レター19号(2003.03.01)

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第4号(1999.06)
第3号 (1999.03)
第2号(1998.12)
創刊号(1998.09)

 

ここでは一部を掲載しています。

西山先生と馬篭のことなど
三宅 醇(豊橋技術科学大学教授) 

蛭が野、大日向両開拓団 現地予備調査紀行 
中島熙八郎(熊本県立大学教授)


西山先生と馬篭のことなど
三宅 醇(豊橋技術科学大学教授) 

 西山文庫の整理がある程度軌道に乗りかかった頃に、西山先生の日記の一部を覗く機会があった。「木曽路」という見出しに惹きつけられた。修士の1年の夏休みにゼミ旅行の企画を任されて、馬篭(有志で木曾御嶽山登山)へ行った時の事に触れていた。
 私の思い出の馬篭だが、高校時代の遠足で馬篭行きのことがあり(約10q)、体育の先生が競技用ピストルを鳴らして、全員が三々五々に出発。元気の良い友人は走り始める。馬篭の藤村堂に先生が待っていて出席を取る、それを済ませば1日自由と言う企画だった。私たちは、親しい友人と4〜5人のグループでゆっくり歩き始める。おにぎり、粉末ジュース、コップが必需品だった。粉末ジュースは当時の最先端の商品だった。落合川の宿を過ぎると馬篭まではゆるいとはいえ、山道を約1時間歩くことになる。竹筒の簡易水道が農家の庭先にひかれていて、ここいらで昼食という時には、ジュースを溶かし、車座でおにぎりをぱくつき、やおら歩き出す。こんなグループがあちこちにいて、本道、あぜ道等を通って馬篭を目指した。走り抜けた友人はさっさと帰ってくる。こんな感じだったから、落合川から馬篭までは標準で1時間半、長くても2時間と踏んでコースにした。
 西山研の旅行には、色んな人がいて女性(アルバイト学生か)もいた。西山先生も歩かれたはずだ。私がせっせと歩いて、着いてみると後発が随分と遅れている。3〜4時間かかって、ブーブーいいながら到着する人が多かった。ひどい案内人だった。
 さて、西山先生の日記には、「木曽路というと、三宅君の企画だったが、これが絹谷君との最後の旅行になって、思い出したくない地名だ」とあった。先生の日記は私にとって、「鬼門」になり、それ以来は覗き見を止めた。
 この数年以前の越県合併の是非で、村を2分する紛争の名残として、随所に「中津川市合併派の家」という琺瑯製のステッカーが農家の入り口に掲げられていた。「島崎藤村は長野県人である。その故郷の馬篭を他県に渡してはならない」と、長野県はそれまで放置してきた御坂村にテコ入れをして、地域の施設が一新され、山口村が生まれた。1960年の国勢調査では、紛争地域の79人の人口は両県に参入されていない。昨年から改めて合併が議題になり、中津川市と山口村の合併協議会が成立し本格的に動き始めた。長野県知事に田中康夫さんが登場して「住民がどう思うかが鍵だ」となったことが、動きをスムースにしたらしい。木曽路は山の中だが、入り口の馬篭は西(中津川)に向かって開けていて、就学・通勤・通婚等々の自然の交流の歴史が、こういう結果となった。
                ◆ ◇ ◆
 翌年夏の絹谷先生の死は、突然であり愕然とするものだった。M2だったのに、私はテーマを決定していたわけではなく、卒論が「木賃アパート」調査だったのだから、当時急増していた「低水準建売住宅」の調査を行おう、その後の研究の展開は先生が1年後に帰られてから考えよう、と思っていた。遅い夏休みを中津川で過ごしていた私に、京都から「絹谷先生の死」が伝えられ、京都に戻った。
 絹谷先生のお葬式が終わり、遺作集「生活・住宅・地域計画」の編集も始まった頃だった筈だが、西山先生からお宅に呼ばれて、広い南向きの廊下で初めての差し向かいゼミを受けた。修論のことで、先生から「住宅階層論をテーマにしなさい」と示された。先生のレクチャーを、成る程、成る程と心に沁み込んで聞いたのだが、下宿へ帰って整理をし始めたら、よく分かっていないことが痛感された。勉強不足でそういう考え方に馴染んでいなかったから当然ではある。住宅統計調査が本格的に出たのが1963年版であり、私の修論は1965年2月締め切りなのに、出版は65年の夏だった。私は住調の存在も知らなかったが、図書館へ行ったり努力はしたのに、それらしきデータにありつけなかった。西山先生の研究室には何かある筈だと、思い切って訪ねたが、「書棚を拝見させてください」というべきところを「いい資料を教えてください」と言ったのではないかと思う。「君は何しにここへきたのですか。こういう資料が欲しいから、それを見せてくださいということなら兎も角も!!教えて下さいとは!!何ですか!!か!!か!!!」といった剣幕に押されて、二度と部屋へは入れなかった。西山文庫が整理されるに従い、「幻」の資料も出始めてきて、見損なったらしい資料を見つけた時には、特別の感慨がある。
 修士論文は不出来であり、先生からは赤鉛筆の強い筆圧で一杯の駄目が入った上に「結局君は何も分かっていない」としっかり書かれていて、消しゴムで奮闘するのに消えてくれず随分と焦った。ただ、雑誌「住宅」の懸賞論文で、私の「民間アパート都市」が2等に入り、これでいささかの均衡が得られた。D1の夏に住宅統計調査の出版を知り、一式を奨学金で買い揃えた。「再集計が出来れば、相当なことが分かるのに」という独り言を、先生は聞き逃さず、大阪府と掛け合ってその研究費を作ってくだ下さった。後に大阪府のT氏から、「研究成果を見たら発注内容とは違っていて説明に苦労した」と、今では時効となった問題点を聞かされた。
                ◆ ◇ ◆
 D1の途中で助手にして頂き、給料を貰って好きなことをする幸運に浸った。ある日、先生に呼ばれて建研行きが決まった。巽先生が京大へ帰られる人事の穴埋めでもあった。京大、建研を経て、その後に豊橋に来ることになり、関西/東京/東海の3大都市圏を体験できる良いチャンスを頂いた。
 当時も東京は住宅問題のメッカだったし、資料は沢山あるのに分析をしたがる人がいなくて、研究的仕事がいくらでもあった。良い時に東京に行ったものだと思う。住宅統計調査に限らず、大数調査の再集計は自分のイメージを統計値で再現できて大切なことだが、機会を次々と作ったから、随分と色んな再集計を試みることになった。
 東京の木賃アパートは、関西とは相当に異なるものだった。元々が一戸建てが主流だから、アパートは戸建て住宅の2階に乗ったり、庭先に建てられたり、アパートと一戸建てが混在する住宅地を形成していたが、長屋建て市街地の外に、別に木賃アパート地区が密集した大阪とは大きな差異があった。東京モデルでは、江戸の参勤交代で武士階層が人口の半分、面積で7割を使っていたから、武家住宅は重要なモデルであり、武蔵野が水田ではなくて畑と雑木林だから、地価も安くて一戸建てで収まった。大阪は町人の町でそもそも長屋がモデルだし、周りは水田で地価は高く、長屋建てが基本の住宅地になったこととは、根本的な差異がある。ただ関西の「文化住宅」に相当する「2室アパート」がやはり大量化したし、郊外に「低水準建売住宅」が広範に建てられたりということは同様であった。こんな調査を試みて、大数調査の再集計を入れて、学位論文「住宅需給構造に関する研究」が成立した。卒業10年での提出は当時の京大としては早い方だったが、西山先生からの「早くしなさい」という激励の手紙を何通も頂き、やっと先生の退官に間に合ったという事であった。
 その後、先生との懇談の折に、「今後、研究者にとって何が重要ですか」と質問をした。先生から「日本は次々と変わっていく。何でもしっかり見ておきなさい。それを纏めておきなさい。」といった趣旨の返事を頂いた。私は、自分がやれる「見ておく」ことを、当時「東京の住宅地」という企画で形にし、「ロンドンの住宅・住宅地」や「ソウルの住宅・住宅地」をつくり、名古屋で「名古屋の住宅地」をものにした。森本さんらが、「東京の住宅地(2)」という改訂版を作ってくれたし、ひょっとすると(その3)もあるかもしれない。住宅・住宅地ともそれなりに目に見えるものだが、裏にある住宅需給構造は、解明しないと分からない。そういう解説を加えた「住宅地」シリーズは重要である。
 自分も65歳定年を間近に控える、そんな年になった。先生の63歳退官の頃を思い出せばなんと盛んであったかと思う。ささやかながら自分もそれなりの著書をものしたいと思い、最近は真面目に取り組んであるのだが、もうひとつ出来映えが平板である。先生には「フンフン、これですか、もう一つですナー」と言われそうだが、私なりの住宅階層論的・住宅需給構造論を一日も早く纏めて出版したい。
 (番外)ここで、ひとつ、宣伝をさせていただきます。私の父は教育者でしたが書家でもありました。中津川は栗きんとんで有名ですが、その老舗の「すや」「川上屋」の看板、地酒「恵那山」の看板などは父の書です。亡くなって10余年になりますが、2003年が生誕100年に当たるので、遺作を集めて百年展を開きます。
 03年5〜6月 <大正村・ロマン館>
 03年8月12〜24日 <中津川・アートランド(小ギャラリー)> 勿論無料です。
 大正村(明智町)は、町起こしとして30周年になりますし、ロマン館の裏の旧三宅家は、父の生家を移築したものです(元禄の頃の建築で町の文化財)。近くの岩村町(旧城下町)、中津川、馬篭・妻籠(中仙道宿場)、北恵那地方などを含んで、恵那地方へもお出かけ頂ければ幸いです。


蛭が野、大日向両開拓団 現地予備調査紀行 
中島熙八郎(熊本県立大学教授)

1.白川郷―御母衣ダム―蛭が野高原
 金沢から高速道を北東にとり、礪波平野で南下、合掌の村の一つ上平村で降りて谷筋を辿ります。白川郷に立ち寄り、御母衣ダムのロックフィルの堤体を横目に、うねる道路を走り抜けると、開けた窪地状地形の蛭が野高原に到着しました。はじめに、開拓団共同の保留地を転換したスキー場に立ち寄り、さらに南下して、高鷲村役場で紹介してもらった「開拓に最も詳しい」福手さん宅に到着しました。不思議なことに、先生の1951年の調査資料には当の福手さんは全く登場していません。
 
2.蛭が野開拓団―福手さんのお話―
「凌霜塾大日道場」
福手さんは現在、国道沿いで娘さん家族とご夫婦で民宿を営んでおられます。この地とのかかわりは昭和15年から始まります。当時郡上八幡に拠点を置く「凌霜塾」が訓練の場として「大日道場」を開き、その世話をするためです。

招かれざる開拓団
敗戦後、岐阜県では真っ先に開拓地に指定され、満州や朝鮮からの人々を中心に「入植者」が集まります。「『開拓』とは名ばかりで、実質は『難民収容所』の観を呈した」と言います。元々、水の溜まった泥炭地で農業不適地、一旦「入植」しても定着できず、他の国内開拓に転進する人も多かったようです。当初140戸を数えましたが、最終的には84戸。「大日道場」建物と白川村の鉱山跡の鉱夫長屋を移築、収入・支出を共同管理するなど、集団生活・開墾が開始されます。しかし、村では「入植反対村民大会」が開かれるなど、彼等の入植を快く思わず、吊るし上げにあうような状況でした。

50年経って、今は……
 現在、43戸がこの地に残っていますが、農業を続けるものは、2〜3戸に激減しています。「開拓の正否は10年が目処」と言われたそうですが、ここでは、20年にしてようやく酪農による安定を得ます。しかし、その直後に「生産調整」が始まり、ほとんどが淘汰されたのでした。昭和38年の新聞記事には「蛭が野に築く酪農村」、「陸の孤島をひらく 乳牛千頭もうひと息」といった見出しが躍り、当時の組合長も登場していますが、その方もその約10年後の昭和47、8年頃に離村しています。
 この間、村は厳しい農業を補うためにスキー場整備など観光開発に取組み成功します。土地代金、民宿経営が困難な農業を補い、遂には主要な収入源に変わっていったのです。今や、周辺の集落からの移転や施設立地が進み、「『高鷲村』より『蛭が野高原』の名の方が有名になった」と言われているそうです。お話の後、「大日道場」跡、酪農で成功した農家などを訪ねて蛭が野の一日目は終了しました。

蛭が野開拓地エキスカーション 
二日目は、まず、村役場を訪ね総務課長さんから、@村は従来から、極めて貧しかったこと、A開拓地は他にも2ヶ所あり、うち1ヶ所は、農業である程度成功を修め、他の1ヶ所はすでに全員が離村したこと、B開発I.C設置やスキー場開発など観光に力を入れていることなどのお話を聞くことができました。その後、短時間でしたが、開拓地全体を回り、先生の写真に符合する場所探しなどを行いました。その中で一軒でしたが、当時からの家で話を聞きました。代が変わっていることもあり、当時の記憶についてはかなり薄れている様子でした。

3.蛭が野から軽井沢へ―日本アルプス横断―
 予定を1時間以上過ぎ、軽井沢に向け「日本アルプス」横断の途につきました。トンネルだらけの曲がりくねった道を車で飛ばします。高山を通り抜け、少し道に迷い松本に到着。何とか鹿教湯温泉に宿を確保し、かなり遅くなって滑り込みました。次の朝は一路、軽井沢を目指します。千曲川沿いをしばらく走り、信濃追分近くから浅間山麓の大日向開拓団の地に到着。長野県開拓自興会の永原さんから紹介されていた井手さんを訪ねました。この井手さん、地元では有名人で、現天皇が皇太子の頃、自宅によく遊びに来ていたという人だったのです。

4.大日向開拓団―井出さんのお話―
昭和18年、先生の満州旅行と大日向開拓団

 先生の日記に昭和18年満州旅行の記録が残されています。住宅営団技師時代、満州の都市や開拓地を巡った記録で、その中に大日向開拓団が含まれています。また、先生の参加は確認できませんが、1950年、農建が現大日向開拓団の調査を行った報告書も保存されています。

満州からの引揚と戦後開拓
敗戦後、過酷な逃避行の中、多くの犠牲をはらって、大日向開拓団はようやく故国―現佐久町にたどり着きます。そのうちの65戸、165人が浅間山麓の開拓地に再入植したのでした。
ここでも入植当初は住宅、開墾、農業生産、生計は共同で行われています。「満州開拓団方式」とでも言えるでしょうか、母子・父子などの欠損家族、単身者など困難を抱える家族を包み込み脱落を防ぐ目的だったと言います。

生きつづける「共同精神」
現在も65戸中61戸が残っています。ただし、農業を経営的に続けているのは、たったの1戸にすぎません。多くは別荘地等に土地を売ったり、農地を他に貸したりと「不動産経営」と農外の仕事を組み合わせる生活です。ただし、その「不動産経営」にも入植以来の「共同精神」は生きています。昭和34年、開墾・農業経営にかかる借金を返済するためまとまった土地を処分して以来、共有地の運用を中心に共同的な対応が続けられています。土地代金を元に建設会社を共同で設立したり、入植以来苦労をともにした宣教師のために教会、保育園用地を提供するという例もあるくらいです。
 お話の後、開拓地内を回り、今も残る農地、開拓団事務所・共同住宅跡の公民館、入植二代目、三代目の住宅群、そして別荘地などを案内していただきました。
 午後からは軽井沢町役場に行きましたが、連絡が悪く、そそくさと若干の資料をもらい、図書館にも資料探しに行きましたが大した物は見つかりませんでした。町にすれば大日向開拓団など、ほとんど関心外の存在なのでしょう。

5.長野県開拓自興会永原さん
 最後の4日目、長野市郊外は高山村の永原さんを訪ねました。長野県開拓自興会という同県の満州開拓団関係者団体の事務局長をつとめておられます。大日向開拓団の所在、関係者探しでは大変お世話になりました。ご本人も戦争末期、黒姫郷開拓団にひょんな事から参加し、敗戦後数奇な経過を辿って帰国するという経験の持ち主です。戦後開拓の経験は無く、「戦後のことは分からない」と恐縮されていましたが、現在長野県の満州開拓関係の資料を収集し、資料館を作るために奮闘されています。
貴重な資料をお借りしてお宅を辞し、長野電鉄須坂駅から安藤さんは長野市へ資料探しに、私は金沢へレンタカーを返しに向かい、蛭が野・大日向両開拓団予備調査の旅を終えました。

今後の予定
 今回の予備調査で、両開拓団ともに、目的の調査が十分に可能であること、また、「戦後入植後の50年」についての調査研究は全く行われていないことも判明しました。放置すれば消滅する「戦後開拓」の歴史を地域生活空間の側面を中心に、是非とも調査・記録し社会化するべく取組を進めたいと思っています。(運営委員)

 

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