レター20号(2003.06.01)

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第6号(2000.01)
第5号(1999.09)
第4号(1999.06)
第3号 (1999.03)
第2号(1998.12)
創刊号(1998.09)

 

ここでは一部を掲載しています。

建築運動を通して
本多昭一(福井大学教授) 

<イギリス留学の記>
ニューハイストリートのシャーク―計画許可をめぐるオックスフォードのある事例―

海道清信(名城大学都市情報学部教授)


建築運動を通して
本多昭一(福井大学教授) 

 西山文庫会員の方には、大学・学会等で西山先生の教えを受けたか、あるいは教えを受けた方から教えられたという方が多いと思います。それらの方々と違って私は、大学も異なり、研究分野も違ったので建築学会の研究会・委員会等で同席させていただいたこともありません。私は建築学科卒ではありますが、大学院は計画系でなく、建築構法(一般構造)の研究室で工業化・prefab.構法を研究しました。
 ですから、西山先生とのお付き合いは「新建築家技術者集団(新建)」の活動を通じてのみといってもいいと思います。後には狭義の「新建」活動のみでなく、京都のまちづくり運動や街並み・景観保存運動などでもご一緒させていただきましたが、それらも「新建」活動の延長といった感じだったと思います。

75年夏の戸隠合宿で
 最初に親しくお話ししたのはたしか75年夏、長野県戸隠で行われた「新建学校」の時でした。
 西山先生は―戦前から様々な建築運動に参加されていましたが―1970年の「新建」設立以来、代表幹事として活動をリードされていました。設立時期からの会員は、全国役員でなくても、先生と気軽に議論したことがあるようでしたが、私は74年頃入会したばかりで、所属も東京支部でしたから、直接お会いしたことはありませんでした。有名な先生ですからお名前は知っていましたし、ご本も多少読んで尊敬していましたので、どんな方かと興味はありましたが、すぐに直接お話しできるとは思っていませんでした。
 75年、「新建」は全国的な行事として「新建学校」という合宿セミナーを開催することを決定しました。「学校」という名称からもわかるように、まさに「新建」活動をするための勉強会を、各支部の若手会員向けに実施する―しかも毎年継続開催する―という計画でした。「新建」東京支部代表であった芸大の山本学治教授(故人)が「校長」になり毎年1講座を担当、他の講師は年度ごとに選んで依頼するという形の2泊3日の合宿セミナーです。
 その第1回の講座は次のようなものでした。
第一講座「建築運動の理念と展望」 高橋偉之
第二講座「設計という行為の状況」 山本学治
第三講座「建設産業の現状と問題点」 城谷 豊
第四講座「建築運動の歴史」 松井昭光
第五講座「町づくりの観点と手法」 石田頼房
 
 第2日の午後、城谷先生の開講前、突然、西山先生が会場に来られました。それはまったく気楽に、フラリと現れた感じでした。どの講座も担当されていませんでしたし、そもそも出席されることも聞いていませんでしたから、驚きました。その時の様子を私の「参加印象記」(『新建』12号)では「広いピカピカの額、不ぞろいの歯を出して庶民的にニコニコと。先生はこのあと、ずっと講義に参加し、夜の交流会も元気に付き合われた。」と書いています。
 勉強が済んだのが夜9時(!)それから野外交流会、飲食と盆踊りという趣向でしたが先生は本当に楽しそうに参加され、さらに宿舎でお酒を飲みながら夜中過ぎまで歓談されました。内容は、もちろん「新建」の諸活動の話ですが、そこから発展・脱線して建築デザイン論になったり、昔話になったり、にぎやかで楽しい議論でした。私は、その議論内容以上に、こういう形で若い者と気さくに議論してくれる先生に驚いたことを鮮明に憶えています。

「新建」代表幹事の西山先生と事務局長としてのお付き合い
 それ以降は、毎年の「新建」全国大会や研究集会、幹事会などで何度もお話を聞き、また質問もさせていただきました。とくに、84年から(私は)全国事務局長になったので、代表幹事の一人である西山先生と手紙や電話で打ち合わせをすることも多くなりました。事務的な連絡のほか、対外的に発表する声明の内容確認、全国大会の議案、機関誌の特集について等いろいろありました。組織内の話になりますが、「新建」の活動方針等は幹事会および常任幹事会で議論・決定しますが、代表幹事は多忙で出席されないことも多いのです。そこで案文の段階で代表幹事に送り、ご意見をお聞きしてから会議にかけるか、場合によっては決定後に送って、事後確認を得ることもありました。当時、代表幹事は4人でしたが、たいてい「君らに任せる、とくに異論はない」といったお返事をいただいたのですが、西山先生はよく、細かい読みにくい文字で詳しいご意見を言って来られました。それが必ず適切、というより痛烈に、私たちが気付かなかったことや、手抜きしていることを指摘された正論でした。ときには正論過ぎて「そこまでは無理ですよ」と言いたくなるようなこともありましたが、先生の方が正論なのは明らかなので参りました。
 たとえば…と思い出そうとすると案外憶えていないので、いい例ではないのですが、たまたま思い出した事例をご紹介すると、機関誌的に発行している月刊誌『建築とまちづくり』の特集で「これからの建築運動」を数人の方に書いてもらう企画があったときのことです。西山先生は筆者の一人、というより筆頭執筆者で、総論を書いていただくことになっていました。編集部が執筆予定者全員に原稿依頼状を出した後で先生から注文がつきました。「これからの建築運動という重大な内容を書くには、全執筆者が集まって議論した上で、合意の上で分担しなければならない。各人自由に書けというのは無理だ。私も書けない。」というのです。もっともなご意見なのですが、専従者がほとんどいなくて雑誌発行作業は毎月大変で、1ヶ月前に執筆依頼を出来ただけでやっとのことでした。全国から執筆者を集めて会議を開いて〜という余裕は、時間・労力・経費の点で無理だと思われました。組織上、雑誌は編集委員会が担当し、事務局長は直接関与しない形でしたので、「編集委員会で検討して貰います」とかわしたのですが、編集委員も困ったろうと思います。(先生もそれ以上言われなかったようです。事務局長に言ってやらないのではダメだと思われたのでしょう。)正論だが、それをする余裕、あるいは力量がないから、とりあえず我慢して〜といういいかげんなやり方を厳しく批判されたのです。その時は大変でも、筋を通して、その機会に組織的改善も図るように、というのが先生のお考えであったと思います。

京都府大に赴任してから
 88年(私は)京都府立大に赴任したので、西山先生にお会いする機会が以前より多くなりました。「新建」でも、全国的会議以外に、京都支部の会議や小集会でも同席し、ご意見をたくさん聞けるようになりました。それ以外に、京都ホテルや京都駅ビルの高層化反対運動、マンション建設反対のまちづくり運動、町並み・歴史的景観保存運動などでもお会いしたり、別々に活動しても報告してご意見をいただいたり、ずっと身近に教えていただけるようになりました。
 活動のことや専門的な話だけでなく、飲食しながらごく普通の雑談をする機会もあるようになりました。「これは旨いね」といった食べ物の話などもお好きなようでした。西山先生宅も大学から近かったのですが、もっと近くに都市計画の中村□先生が居られて―この先生は「新建」京都支部の余興師範(?)でしたが―ときどき囲碁対局しながら、西山先生のお若い頃のこと、好きな飲み屋のことなどもお聞きして、より身近になりました。九州で大会があったとき、福岡支部の福永博さんの案内で太宰府天満宮を見物したときのこと、茶店のお婆さんが昔、看板娘で○○小町と呼ばれたと聞いて、わざわざ立ち寄って話しかけたり…そういうことがお好きなようでした。まあ、だれでも好きかも知れませんが、先生は照れずに率直に表現されるところが私は好きでした。

建築論・建築運動史論をめぐって
 「新建」活動の理論的検討の必要から、私は、種々の建築論・デザイン論を研究したり、過去の建築運動史を調査したり、未熟なくせに恥ずかしげもなく、文章を書いたりしたのですが、それについてときどき厳しい指摘を受けました。せっかくご指摘を受けても、こちらも結構頑固ですからなかなか改めないので、呆れられたのではないかと思いますが、ずっと投げ出さずに批判していただいたのは有り難いことでした。こんど建築運動史の本を出させていただきますが、内容の一部には西山先生と意見が異なる部分もあり、気になります。
 たとえば、終戦直後に発刊され評判になった浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』の評価ですが、私は積極面を評価して書いたことがありますが、先生はNAU(新日本建築家集団)の頃、リアルタイムで議論された立場からかなり酷評されました。要約すると「本多個人見解ならそれでよいが、「新建」が評価するというなら問題である」といったお手紙をいただいたこともありました。その後さらに研究しましたが、完全には一致していません。その点も含めて、戦前・戦後の建築運動について、リアルタイムで知らない私としては資料とヒアリングから書きましたので、先生が居られたらチェックしていただけるのにと残念です。なお、こう書くと読者に不安を与えるといけませんから付言しますが、この本はNAU時代から西山先生と一緒に活動された松井昭光さんに監修していただいたのでご安心下さい。松井さんはNAUの後、60年の「NAC(新建築家集団)」創設、70年の「新建(新建築家技術者集団)」創設に尽力され、雑誌『新建』(後の「建築とまちづくり」)初代編集委員長をされた方で、建築界では雑誌『建築と社会』編集長として広く知られています。松井さんの厳しい監修により、内容は正確なものになったと自負しています。しかし、松井さんも私も、やはり建築運動史は西山先生にチェックしていただきたいと心から願っているのです。

先生の柔軟さ、懐の深さ
 西山先生にはたくさんの論文・著書があります。それらを読むと、理論的に厳密で固い感じがすることが多いのですが、身近にお話しすると柔軟、というか異論にも耳を傾け、その中から何かを採り上げて行こうという懐の深さを感じます。
 これも、そう感じたことは多数回あるのですが、たまたま思い出した例を一つだけ紹介します。
 先生は戦後の住宅改善に関して―正確な引用でなくて申し訳ないのですが―庶民の家を1戸ずつ丁寧に設計するのは無理だから型計画が必要なのだ…という意味のことを書かれています。それに対して「新建」の設計者たちは、それぞれの家を(全部でも!)その住み手家族の生活に合わせて設計しようとしていますし、将来はそれが可能だと考えていますので、先生に反論のようなことをぶつけたことがあります。意外にも先生は「これからはそうかも知れない」と言われました。
 それに関連しますが、「新建」会員が数人で始めた小事務所が、従来の建築事務所の殻を破って、相当劣悪な条件のローコスト住宅を手がけたり、地域住民の細かい要望に応えて活動することを注目し、自分のことのように喜んでいました。とくにに東京の下町で「泥まみれ」で奮闘する象地域設計の活動には関心が高く、その活動を聞くのが嬉しいと言っておられました。その象(しょう)の15周年パーティには、京都からかけつけて祝辞を述べられました。象は昨秋、もう25周年を迎えたのですが、先生はどこかから見ているのではないかと感じます。


<イギリス留学の記>
ニューハイストリートのシャーク―計画許可をめぐるオックスフォードのある事例―

海道清信(名城大学都市情報学部教授)

1.はじめに
 2002年4月から1年間、英国オックスフォード市のオックスフォード・ブルックス大学市街地環境学部において、在外研究の機会を得た。帰国して、自分が居住し、かつ当学部が立地している名古屋都市圏の郊外スプロール地域の現状を見るにつけて、都市環境の落差に改めて愕然としている。実に、ここは美しくないのである。もちろん、英国も多くの都市空間および計画上の課題を抱えており、その改善のために、市民、行政、プランナーなどがさまざまな努力をしている。しかし、短期間とはいえ、1年間の生活体験を通じて、市街地中心部の賑わい、音楽や映画演劇などの文化を享受できる環境、市街地のすぐ近くにある整備された水辺や緑地、歴史的な建築物の継承と保全など、都市づくりの伝統とその成果は、まだまだ、わが国は追いつけない水準にあるというのが実感である。こうした英国を含めたヨーロッパ諸国の伝統は、さまざまの歴史的な経緯の上に築かれてきたが、市民の自覚的な取り組みなしには、存在し得なかったことだけは確かである。

 この小論は、ブルックス大学の近くにあるヘディントン・ショップ(地域商業中心)の住宅地にみられる人形の鮫(シャーク)=「住宅のデコレーション」をめぐるひとつの物語を、紹介しようとするものである。英国の都市計画の基本は、開発に対する強力な計画コントロールである。しかも、日本よりもかなり市民参加が徹底していることは、よく知られている。このシャークは、カリングワースB. Cullingworthが編集した『英国の計画・この50年、British Planning - 50 Years of Urban and Regional Policy (1999,The Athlone Press)』 のデザインの章(P140,John Punter著)に、写真入で紹介されているほど有名である。その写真のキャプション:「芸術家のビル・ハインが、オックスフォードで1986年にイルミネーションされた鮫を許可を得ずに設置して、デザイン規制と戦うこととなった。市は、計画許可を与えなかったが、異議申し立ての結果、主として近隣の人々が反対しなかったために、1992年に勝利した。」この一つの「事件」を通して、読者の皆さんが英国における都市づくりの背景を考える参考になれば幸いである。

2.あらまし
 オクスフォード市内の東部にあるヘディントン地区は、19世紀後半から市街化が始まった住宅地である。その中心部にあるヘディントン・ショップは、いろいろな商店やサービス施設が集まっている近隣中心地区の名称である。地区を貫く幹線道路はロンドン・ストリートと呼ばれ、ロンドンへの直通バスが通り、交通量が多い。そのため、歩行者の安全のために地下横断道が設けられている。1年程前から地域の人々のボランティア活動によって、殺風景な壁面に周辺のお店などをペイントで描く取り組みが進められてきた。
 私が通りかかったとき、ちょうど、空から落ちて住宅の屋根に突き刺さったような鮫(シャーク)をボランティアの画家が描いているところだった。通りかかった人と、その絵のことで何かやり取りをしていた。「そんな絵を描いてもいいのかい?」「ちっとも問題ないさ」といった感じだった。じつに、興味を引かれる特異な形態をしているシャークの家は、すぐ近くの住宅地にある。そこの写真を撮っていると、「何をしているの」と聞いてきたのが、ジューン・ホワイトハウスさんという老レディだった。彼女は、このシャークをめぐる地域の運動の中で、強力に支持活動をしてきた中心人物だった。彼女の家に案内されて、玄関脇の応接間に通されたが、そこには長年のシャークをめぐるたくさんの資料が所せましと、積み重ねられていた。彼女からこのシャークをめぐる興味深い歴史を知ることができた。
 シャークを設置した家主ビル・ハインBill Hein、これに反対して取り外させようとした市議会(シティ・カウンシルすなわち市役所)、それに抵抗したジューンさんらの住民の活動、住民の意向に沿った政府の決定、これが物語の全体の見取り図である。多くの地域住民の意向が、なぜ議会では覆ったのか、不動者所有者の表現の自由とも絡んで、かなり特異なケースではあるが興味深い。
 雑誌The Sunday Correspondent/37,1989年11月26日号の記事「The Hunting of the Shark(シャーク狩)」なども参考にして、まとめてみよう。

3.始まり
 長崎原爆投下41年目の日、1986年8月9日に、ヘディントン・ショップの映画館モウリン・ルージュ・シネマの経営者であるビル・ハインは、ニューハイストリート2番地にある自分の家の屋根に、天から落ちてきたような大きなファイバーグラスでできたシャークを設置した。その家は、彼がその年の4月に購入したものだった。たちまち評判となり、近所の人だけでなく観光客も見に来るようになった。しかし、このシャークを快く思わない人たちも少なからずいた。その中には、市議会計画委員会の副議長で、市の保守党の代表ジョン・スタンヤーなどもいて、このシャークを取り外すように動き始めた。
 実は、ビルはこのシャークを設置する前に、映画館の入り口の上におおきな人形を設置していた。それは、空に大きく足を跳ね上げたかんかん踊りというかなり派手なデザインであった。後に、映画館の建物が取り壊されるまで、ニューハイストリートには、これら2つの人形が見られたというわけである。2つの人形は、オックスフォードシャー在住のジョン・バックリーが製作した。
 映画館のかんかん踊り人形は宣伝のためであるが、自宅の屋根に突き刺さったシャークには、ビルの平和への思いがこもっている。彼が、シャークの形を思いついたのは、中東を旅行したときに見た、砂漠に突き刺さったミサイルの形からということだ。このシャークに込めた意味を、「核武装反対運動、核、チェルノブイリ原発、長崎原爆などを表現している。家といえども、もはや安全ではないということだ。」と、彼は雑誌の記事で述べている。
 
4.シャーク撤去の動き
 シャークの7年前に設置した映画館のかんかん踊り人形をめぐって、人形を守れという署名が当時2500も集まった。地元紙オクスフォード・タイムスは、ビルの味方だった。結局、芸術作品として開発許可は要らないという判断から、議会の計画委員会は設置許可を出した。ビルは、自分の家を好きなようにすることは、人々の自由であると信じていた。彼は、かんかん踊り人形と、シャークは同じだと考えていたが、市議会の保守党のドンであったジョン・スタンヤーは、これはやりすぎだと判断し、市会議員のジョン・ギブソンも取り外すべきだと主張した。計画担当職員たちもシャークについては批判的だった。設置してから3年後にも、まだシャークは屋根の上に残っていたが、議会ではこれをめぐって、その間にいろいろな議論が重ねられ、シャークに関する議会のファイルの資料は、他の大きな開発案件よりも多くなったという。多くの意見は、強制撤去に傾いていたが、ビルは受け入れなかった。
 経過を振り返ると、シャークを設置した月に、すでに議会は路上に落下する恐れがあり危険であり、都市農村計画法22条の計画許可が必要と考えた。しかし、ビルはシャークは路上に落下する恐れはないし、計画許可は芸術作品を対象にしておらず、議員は美的価値を判断するために選挙で選ばれたわけではないと主張した。
 大きな議論が始まった。市議会のリーダーであるアラン・グリフィス(労働党)はシャーク支持派で、保守党のアン・スポークスも美的な作品と考え支持した。反シャークのリーダーは、労働党のジョン・パワーで、計画委員会の副議長だった。党を超えた論争になっていたのである。設置の1ヵ月後の1986年10月に、計画委員会は取り扱い方針を採決して、6ヵ月後に取り外すように決定した。

5.シャークを支持する動き
 しかし、設置して6ヶ月もたたないうちにシャークは国際的にも知られるようになり、オックスフォード市の観光ガイドブックや絵はがきにも掲載され、観光客も訪れるようになった。サザン・アーツは、シャークの製作者ジョン・バックリーに、作品をたたえて1000ポンドを授与した。マスコミはビルを応援し、オクスフォード・スター紙は、毎週コラムを書くように彼に申し入れ、BBCラジオ・オックスフォードは、毎日の番組の電話回答者になるように申し出た。
 ニューハイストリートの住民は、存置をめぐって署名を集めたが、存置賛成100、反対49となり、多くの住民が存置に賛成という状況だった。住民の支持活動の中心になったのが、ジューンさんだった。彼女はジャークへの思いを、次の詩に表現した。

聞いてよ 聞いてよ あの鮫のこと
   ハインが持ってきた
      ニューハイストリートのこぎれいな静けさに

天にのびて
   通行人を不思議がらせ
      核兵器を思い出させるもの

ああ 好戦的な魚よ
   われらの通りに 平和をもたらすように
      見上げて 微笑み そして通り過ぎながら

 彼女は自分の家を「シャーク・ビュー」と名づけ、自宅玄関脇に小さな看板もつけた(今もついている)。ところが、7番地に住んでいるローレンス・ハーウッド博士はシャークに反対で、彼女の家からはシャークは見えないはずだと議会で異議を唱えた。彼女は、「ちょうどライラックの木が生い茂っているから見えないだけ。ニューハイストリートの通りのひとは皆、シャークが好きよ、嫌いな人は心の中が平和じゃないから」と反論した。
 撤去の最初の期限は1987年7月だった。議会のシャーク支持派は、さらに議論を継続すべきだと主張したが、11月になり最終的に市議会は、シャークの取り外しを決定した。レクリエーション・アメニティ小委員会がシャークの持っていき場を決めることになっていた。良い場所を見つけた。それは、市のスイミングプールである。しかし、ビルは今の場所すなわち自宅以外に適切な場所はないと拒否した。そこで、88年6月に市議会は、オールドファイアステーション・アートセンターはどうかと、ビルに提案した。さらに会議が89年1月に開催されたが結論が出ず、3月に検討の継続が決定された。決着がつかず、この案件は8月にはオクスフォード行政裁判所にかけられた。ビルの弁護士は、この件に関しては、芸術作品の扱いであるから、都市農村計画法に関する市議会は決定権がないと主張した。

6.支持派の取り組みと市議会の動き
 市議会は、90年に最終的に取り外しの決定を行った。実際には、そのときの計画委員会の委員投票では賛否同数だったが、委員長が取り外しに投票したため過半数となったのである。しかし、ビルはその命令に従わなかった。彼は、市議会の決定に対して環境省にアピール、すなわち異議申し立てを行った。インスペクターが派遣され、審問会が91年10月15、16日に開催された。多くの手紙が環境省に届けられ、インスペクターは証人の審査を行った。規定により、この案件をめぐって「明らかな一般的なpublic論争が行われているため、証拠は環境大臣」ミカエル・ヘゼルティンにまであげられた。
 シャークの存続を支持するジューンさんらは、さまざまな活動を展開していた。議会計画委員会での議論の時に強く存置を主張するために、住民の支持署名、賛否のアンケート調査、さらには路上に駐車している自動車のナンバープレート調査をして、遠方からシャークの見学のために来ている人々が少なくないこと、したがってオックスフォードの観光など活性化に有効であることも証明した。このような、住民の粘り強い取り組みは、環境省の決定に大きな影響を与えた。

7.環境省の決定
 環境省は、最終的にシャークの存置を決定して、1992年5月21日に市議会に通知して、シャークをめぐる争いに決着がついた。インスペクター役を務めた建築家ピーター・マクドナルドは、「法による計画コントロールの目的は、市街地環境における平凡な統一性to enforce and a boring and mediocre uniformity on the built environmentを強めることにある。また、いかなるシステムもダイナミックな動きができる余地をもつべきである。そうしなければ、環境はより貧しくなってしまう。私は、このケースには小さなビジョンとイマジネーションが適用されるべきであると信じる。」と述べた。シャークはこの時期までに、およそ200回も、雑誌、新聞、マスコミなどに取り上げられ、その90%は支持の立場だった。環境省のミカエル・ハワードは、「シャークは、保存の意向を拒否することを正当化するほど視覚的なアメニティを阻害しているとは思えない。今後とも同様なケースについては、そのようなメリットを考慮する」と発言した(Building Design1992,5,29)。
 ところで、環境省の存置決定には、次のような付帯条件がついていた:9ヶ月ごとにペンキを塗り替えてシャークのメンテナンスに努めること、夜の10時半以降はシャークの照明を消すこと。

8.おわりに
 以上のような経過のなかに、住民活動家が意見を表明できる場としてのカウンシル(議会)計画委員会、市の決定を審議する行政裁判、全国レベルでの法解釈のためのインスペクターによる査問会、といった英国の都市農村計画法のもとでの住民参加、計画許可手続きの民主性がよく表れている。
 大学の研究室から、買い物や旅行のチケットの予約、パン屋さんのサンドイッチを食べるために、ヘディントン・ショップに歩いていくと、右手にシャークを見かけた。たしかに周辺の住宅環境からは、ちょっとかけ離れた光景であるが、見慣れてくるとこれがないと、すこし寂しいと感じるかもしれない。小鳥たちがシャークに留っている。オックスフォードの街中では、形は古いままでも黄色、ピンク、青など所有者の意のままに派手な色を外壁に用いている建物も時々見かける。しかし、不思議とそれほど違和感がない。周辺の建物群の形態に調和、統一がとれているからだろうと思う。

 翻って、わが町の景観の状況を思うと、まったく反対の状況である。幹線道路沿いに、いつのまにか、さまざまな形と用途の建築物が乱雑ににょきにょきと建ち、その近くには閉鎖したガソリンスタンド、コンビニ、焼肉店などが醜い姿をさらしている。都市化社会から都市型社会、成熟社会へといった言葉が空しく聞こえる。日暮れて道遠し、とならないように、プランナーとしても研究者としても、力を尽くしたい。「ウップス」といいながら、埃まみれの資料を取り出して、一生懸命説明してくれたジューンさん。結局、ビル・ハインやシャークの作者には、会う機会がないまま帰国してしまったのは、すこし残念である。

<NPO西山記念文庫>
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