ここでは一部を掲載しています。
川辺川ダムを巡る闘いの諸相
中島煕八郎(熊本県立大学教授)
オクタヴィア・ヒル生誕地博物館Octavia
Hill Birthplace Museum
中島明子(和洋女子大学教授)
川辺川ダムを巡る闘いの諸相
中島煕八郎(熊本県立大学教授)
はじめに
川辺川ダムを巡る闘いの歴史は1950年代始めに五木村に始まる初期段階、1980年代初頭の五木村における闘いの終焉、「空白の10年」を経て、下流人吉市を中心とする新たな闘いの発生と一定の高揚。1990年代半ばからの「利水」を巡る農民、漁業権を巡る漁民への広がり。そして地域から下流、全県、全国への支援、参加の広がりを経て、今大きな転換点を迎えています。
以下に1990年代以降の動きを地元を中心に略年表にして記します。極めて複雑、多様かつめまぐるしい様相の変化を小生の能力を持ってしては的確に解説するのは不可能だからです。
川辺川ダム・利水関係年表―1990年代以降抜粋
1993 ☆ 国営土地改良事業変更計画説明会。
☆ 川辺川を考える会発足。
94 ☆ 国営土地改良事業変更計画公示。行政不服審査法 に基づく異議申立て(1144人)。
95 ☆ 異議申立てにつき第1〜3回口頭審理
☆ 川辺川ダム事業審議会発足。
96 ☆ 農水大臣、異議申立てを棄却。川辺川利水訴訟熊 本地裁に提訴。川辺川の会発足。
☆川辺川ダム事業審議会、事業継続を答申。
97 ☆川辺川利水訴訟を支援する会発足。
☆建設省、仮排水路工事に着手。
98 ☆熊本県議会、川辺川ダム変更計画を承認。建設省、川辺川ダム変更計画を告示。
☆手渡す会、県民の会、支援する会、東京の会2756人の変更計画異議申立て提出。
☆川辺川利水訴訟第6〜8回(被告、「死者の同意」 の存在認める)口頭弁論。
☆国土研、「ダム代案」含む調査結果公表。
☆農水省、「再評価の結果、利水事業は推進」と発表。
☆川辺川「仮排水路」貫通。
99 ☆公共事業議員の会等野党議員視察多数。
☆環境庁、川辺川「水質日本一」認定。
☆建設省、球磨川漁協に補償交渉申し入れ。
☆「大水害体験者の会」「漁民有志の会」発足。川辺川を守る会全国集会(東京)。
☆人吉市農民、利水事業辞退を表明し九州農政局に辞退届け提出。
☆川辺川ダムにアセスを要求する署名開始。
2000 ☆川辺川利水訴訟判決で農民側敗訴。農民側、福岡 高裁に控訴。
☆建設省、99年度中のダム本体着工断念。
☆初当選直後の潮谷知事、「環境アセス実施すべき」 と発言。
☆多良木町農民300人が利水事業辞退届けを農水省、熊本県知事に提出。
☆建設相、ダム変更計画異議申立てを却下。建設省、土地収用法に基づく強制収用の事業認定申請。
建設相、事業認定。
☆球磨川漁協、臨時総代会で新役員選出。建設省と補償交渉を開始。
☆人吉市議会、「環境保全」・「話合い解決」意見書を採択。
01 ☆「川辺川ダム問題を考える議員の会」発足。人吉市議会、「川辺川ダムに法アセスの実施を求める」
意見書を可決。建設省、「法アセス実施せず」と回答。
☆流域自治体主催で「ダム建設促進、年内着工」決起集会。
☆水没3団体、潮谷知事にダム促進要請。知事「拙速 に結論出すな」と発言。
☆八代海37漁協、ダム反対の方針。「川辺川ダム総 決起集会」で影響調査要求。
☆球磨川漁協総代会、国の漁業補償案を否決。同漁 協補償交渉委と理事会が国交省の補償案を
受け入れ。
☆「人吉市の住民投票を求める会」直接請求署名 16711筆を選管に提出。人吉市議会、10:11で住
民投票条例案を否決し、「ダム早期着工」の意見書 を可決
☆建設省、00年度内ダム本体着工断念。
☆坂本村住民投票の会、1670人を選管に提出。議会、同条例案を7:6で否決。
☆八代漁協総会、ダム本体着工反対を決議。
☆国交省八代海域調査委員会、「ダム建設で八代海への影響はない」と報告。同治水検討委、国の
説明は妥当と最終結論。
☆潮谷知事、記者会見でダム着工に慎重姿勢「考える時間あっていい」。球磨川漁協と国交省の補
償密室合意に不快感表明。
☆扇国交相、川辺川ダム中止なしを表明。
☆土建業界―明日のくらしを考える会集会。
☆川辺川研究会、「ダムがなくても治水可能」と発表。関係機関の検討を要請。
☆相良村長に矢上氏が現職を破り当選。
☆球磨川漁協総会、漁業補償案を否決。
☆第1回住民討論集会、3000人の参加で開催。現在 までに9回を重ねる。
☆国交省、熊本県収用委員会に漁業権等の収用裁決を申請。県収用委、受理。
☆坂本村議会、強制収用反対意見書を可決。
☆朝日新聞、県内川辺川ダム意識調査公表。反対42 %、賛成20%、他38%。
02 ☆国交省労組が強制収用申請に批判。
☆八代市長にダム反対の中島隆利氏が当選。
☆潮谷知事、記者会見で「国交相は現地視察を」と意向示す。五木村の生活基盤をダム着工前でも
整備をと国交省に要望。
☆国交省河川局長、ダムの本体着工に意欲。
☆熊日新聞、川辺川ダム工事受注企業の自民県連への献金報道。世論調査結果報道、ダム中止
54.9%等。
☆潮谷知事、「市民団体のダム代替案を無視できない」と答弁。扇国交相「ダム着工は住民討論集
会の結果を待つ」 と発言。
☆田中長野県知事現地講演会に1700人。
☆共産党国会議員、国交省内部のダム懐疑論を暴露。
☆潮谷知事、議会で荒瀬ダム完全撤去表明。
☆利水訴訟控訴審第7回口頭弁論で、198人分の国の書換えを確認。
03 ☆5.16、控訴審判決で農民側勝訴。
☆県収用委員会、利水訴訟国敗訴で中断。
☆人吉市長選挙で推進派現職が当選。
☆九州知事会で「ダム促進要望」に潮谷知事が不参加。
☆川辺川ダム促進協総会で八代市長、坂本村長が裁決に棄権。
☆川辺川利水に関する国、県、市町村、原告ら農家意向調査に関する事前協議開催。
☆新利水計画に向け第1回意見交換会開始。第1回農家意向調、第2回意見交換会、現地調査、第
3 回意見交換会、第2回農家意向調査を実施。(7月 〜12月)
☆関係農家名簿の漏洩で関係者の処分、農水省が原告団に謝罪。
☆住民討論集会第9回。国、県、市民団体で森林保水力調査へ。
☆川辺川ダム事業認定取消訴訟原告が「川辺川尺アユ原告団」結成。漁協組合員504人が補助参
加申立て。
‘孤軍奮闘’の初期―五木村の闘い
川辺川ダムが始めて歴史に登場したのは、半世紀前の1953年、電源開発鰍フ発電用ダム調査です。姿を現したダムに対して、五木村が村長・議会を先頭に反対運動の狼煙を挙げました。あの「蜂の巣城」で有名な下筌ダム反対運動指導者室原氏のもとにも出かけ、指導を乞うていたという隠された歴史もあります。
しかし、この闘いには、多くの弱点があったようです。まず、村長・議会を先頭にしていたとはいえ、水没地住民の運動に限定され、村内他地域、村外に広くその輪を広げることが出来ず、また、中世的な土地所有関係が残っているため、運動を統一することが出来ませんでした。巨大な国家、県を相手に「衆寡敵せず」、1970年代終わりには「条件闘争」へと転換し、80年代初めには数々の訴訟も取り下げ、「敗北」しました。89年には五木村、相良村(ダムサイトの計画地)を含む流域2市17町村による「川辺川ダム建設促進協議会」が設立され、今に至るまで「ダム促進」の主力部隊の一つとなっています。
流域郡市民、県民の闘い始まる
五木村が孤軍奮闘している間、他の流域住民が全くの無関心であったわけではありません。ただ、その勢力は弱く、その上、人吉での反対の声に対し、ボイコットの圧力がかかることなどもありました。この「空白」が、以後の五木村と他地域との連携の障害となっています。
90年代にはいって、年表に記した「川辺川を考える会」の発足を機に状況が大きく動き始めます。この会は、当時、M新聞人吉分局に勤務していたF記者が呼びかけたものです。彼は「島流し」の状況下、建設省に対し情報公開を求め、それら乏しい資料と精力的な取材を基に「国が川を壊す時」という著書を出版します。その内容は河川工学の専門家も舌を巻く、実に科学的でポイントを鋭く突いたものです。ダムにおける治水問題にかかわる闘いの原典とも言うべきものです。
「考える会」は「美しい川辺川を未来に手渡す郡市民の会」に発展し、八代市でも球磨川の環境を守る団体が誕生。全県的にも「川辺川を守る県民の会」が発足するなど、多くの団体が生まれ、参加し、急速に闘いの輪が広がり始めたのです。
流域農民、漁民の戦線参加
上記の運動は、いわば「市民運動」と言うべきもので、環境問題や無駄な公共事業批判の立場からのものです。この運動は、ダム本体に直接かかわって国交省と対峙し、環境・治水問題では主力部隊の一翼を担う重要なものです。01年の川辺川研究会「代替案パンフ」の出版を機に開始された住民討論集会の住民側代表として、国土研、水源連、他研究者の協力を得て、科学的にも極めて水準の高い論陣を張っています。これに直接利害関係を持つ農民―新たな負担を伴うダムによる利水事業はいらない―、漁民―清流川辺川を守り鮎と漁業を守る―が闘いに参加することになります。
利水事業を巡る農民の闘い
農民の闘いは「ダム反対」を掲げるものではありません。50年代に、頭を出していた「球磨北部土地改良事業促進期成会」が、30年を経て「国営川辺川総合土地改良事業」という形で「結実」します。事のおこりは旧軍飛行場が戦後払下げられ、開拓が行われた台地への給水です。両側に川辺川と球磨川を望みながら、その水の恩恵を、一部を除いて受けることなく、水には大変苦労していました。開拓も一段落する中、水を得て水田化することが強い要望となっていたのです。しかし、受益農家に最も有利な「国営事業」指定には、規模の点で不足するため、水の要・不要に関係なく、周辺農地をかき集めて約3,500haに広げ、水源を川辺川ダムに求める農業用排水、区画整理、農地造成を行うという計画でした。この段階では農民に動きはありません。
93年農政局は突如、3,100ha余に規模を縮小する計画変更を告示します。農業状況も大きく変化し、それまで顕在化せずくすぶっていた農民の不満が一気に噴出。多数の「異議申立て」が提出されます。対する農政局の対応は、極めて侮辱的なものであり、全てを棄却したのです。96年、農民は800余の原告団、1200余の補助参加を持って熊本地裁に異議申立て棄却取消訴訟を起こします。00年は地裁で敗訴しますが、即座に控訴。03年5月16日、福岡高裁では勝訴し、農水相は控訴せず、同31日国敗訴が確定したのです。
その間、原告団、同弁護団の活動には凄まじいものがありました。たとえば、地裁訴訟段階で関係農家4,000余中の約2,000をしらみつぶしに当り「事業同意」の真偽を確認しました。地裁はこの結果を避け、事業を「75%以上の合意を得た適法なもの」と認定しました。控訴審ではさらに残る2,000余の農家を当り真偽の確認を行ったのです。この行動には、地域、県下のさまざまな団体が支援に入りました。その結果、「死人が署名捺印」「他者による無断代筆」「記入後の書換え」が多数確認され、「同意取得」過程での意図的歪曲が、白日の基に晒されたのです。控訴審判決は事業内容に立ち入らず、実に簡潔なものでした。「農地造成事業以外は、3分の2の合意に達していないため違法」というものです。
新利水計画づくりへ
しかし、国(農政局)はあっさりとは諦めません。地元首長・一部議員、土建業界、「事業組合」など「推進派」を頼みに、違法とされた計画の焼き直しを押し通そうと画策を始めます。原告団、同弁護団も警戒を強めますが、県のダム総合対策課(以下、県とします)が、より一層の危機感を持ち、その暴走に割って入りました。国のやり方が不正・強引であったため事業は頓挫しましたが、水を求める農家は確かに存在します。「そこに水を、今度は失敗なく届ける、それも国の事業で」というのが県の立場です。
県は国敗訴確定後直ちに上京し、国交省、農水省を交え「新利水計画策定を県が国・県農政部・市町村・関係諸団体の仲介者となって進める」との確認を取り付けます。6月中旬には、上記代表を集め計画策定の進め方の事前協議を開催し、「死のロード」とも言える農家との意見交換会、意向調査、水源調査、事前協議が始まります。
変わり始めた農民・地域―民主主義の訓練
意見交換会では国や県農政部の「バラ色」の説明に対し原告団・弁護団、研究者(わたし)の考え方を説明し、そして参加農家との意見交換を行います。市町村単位、集落単位、水掛り単位の3シリーズにおよぶ意見交換会への参加農家の割合は2〜3割にとどまっています。
この中で農民は、事業の中身・性格をようやく知り、国や「推進派」が宣伝してきたことに含まれる矛盾に気付きます。元気だった推進派もその空気と事実に気付き徐々に威勢をそがれ、「権威」を弱めて行きます。その結果、素朴で鋭い疑問や意見、明確な「水不要宣言」、国の枠を超える要求が出てきます。決定的だったのが第2回農家意向調査結果です。水が「必要」「あったほうが良い」という農地は全対象農地の22〜23%にとどまってばらばらに分散し、水源をダムに求める農家は実質20%弱という結果が出たのです。民主主義がようやく、顔を見せ始めました。
今、国は国交省の圧力、推進派・県農政部の突き上げと相互不信、逃がすまいとする県の追求、原告団・弁護団の追及、農家の鋭い眼に囲まれ、さっさと「事後処理」を済ませて逃げ(られ)るか、「ダム利水案」を押し通す(せる)かの狭間で揺れ動いているように見えます。しかし、決して気を緩めることは出来ません。
まだしばらくは「ロード」は続きそうです。
オクタヴィア・ヒル生誕地博物館Octavia
Hill Birthplace Museum
中島明子(和洋女子大学教授)
“西山研の”設計事務所 『英国住宅物語 ナショナル・トラストの創始者オクタヴィア・ヒル伝』(日本経済評論社)
この長々しいタイトルの本の原題は、単に『オクタヴィア・ヒル伝』である。モバリー・ベルにより1942年に発行されたものだが、1986年復刻コピー版が出され、これを建築家松本茂氏に紹介したところ、5〜6年たって忘れた頃、翻訳を完成された。世に出すにあたって出版社が、オクタヴィア・ヒルを知らない人にもわかるようにと販売戦略上あらゆるキーワードをつけたため、長いタイトルになってしまった。
しかし、出版を前に大きな問題があった。何よりも、原本が古く、イギリスの出版社にもないという。どうしても原本を確認しておく必要があるだろうし、本書の内容にかかわる現地もみておきたい。そこで、かねてから是非とも行きたいと思っていた、イギリスのオクタヴィア・ヒル生誕地博物館を最初に訪ねることになった。2000年12月のクリスマスに近い時期である。
オクタヴィア・ヒル生誕地博物館
近代住居管理の母であり、ナショナル・トラスト創始者の一人であるオクタヴィア・ヒルは、1938年にウィズビーチに生まれた。ウィズビーチはロンドンの東北部、ケンブリッジ州の歴史的商都である。オクタヴィアが生まれた住宅が未だに残っており、1991年にその建物の3分の1をオクタヴィア・ヒル協会が購入し、博物館としてオープンした。
私たちが訪問した時は整備中であったが、最近開設したホームページでみると、現在はかなり充実した内容になっている。地下にはオクタヴィアがラスキンの援助を受けて最初に管理を開始したロンドンのパラダイス・プレイスを復元した部屋があり、2階の元食堂は、オクタヴィアの業績にかかわる資料が展示され<フェンランドの部屋>、彼女の部屋と母親の部屋は<住居の部屋>と呼ばれ、彼女が使った机が置かれ、関係者の写真が壁を埋め、ラスキンの指導で絵を描いている様子などが再現されている。3階は<ナショナル・トラスト(そのシンボルであるどんぐり)の部屋>である。壁面にはナショナル・トラスト縁の絵が描かれ、関係する資料が置かれている。
オクタヴィア・ヒル・アーカイヴ
勿論私たちはそこでモバリー・ベルによる伝記の原著を見つけることができた。はるばる地球を半周してたどり着いたのだから嬉しさこの上ない。博物館の館長はピーター・クレイトンという、いかにもナショナル・トラスト人という方で、きさくで親切。自らオクタヴィア・ヒルの研究を行い、小冊子を発行し、シンポジウムを開催している。彼の作成したオクタヴィア・ヒル関係のロンドン地図は役に立った。一昨年にはオクタヴィア・ヒルフェスティバルまで行い、第一線の研究者から海外の人まで町に呼び込み、オクタヴィア・ヒルを種に町の活性化に一役買っている。私たちが訪れた当時は他にはボランティア職員だけだった。
博物館の整備とともに、オクタヴィア・ヒルに関する資料、著作の収集もこれまで以上に精力的に行われるようになり、女性住居管理人の研究をされていたマリオン・ブリオンさんも、リタイアするにあたって、資料一式をこの博物館に寄付をしたという。多分私たちの翻訳本も所蔵され公開されているのではないか。
ブレア政権の下で、より一層非営利組織の活動が促進され、その文脈でオクタヴィア・ヒルが再評価され、この小さな博物館が、地球規模で注目を集めている。
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