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「西山夘三と日本のすまい展」を見る
鈴木成文(神戸芸術工科大学学長)
著書の編集に携わって
礒崎好子(元勁草書房勤務)

「西山夘三と日本のすまい展」を見る
鈴木成文(神戸芸術工科大学学長)
「西山夘三と日本のすまい展」のオープニングパーティに顔を出したが、これは凄い展覧会だ。圧倒されて帰り、もう一度見ようと「映像で見る日本のすまい」スライドセミナーの日にも出かけた。お陰でこの展示を企画・実行した方々ともゆっくり語り合う時間をもつことができた。
西山氏の生い立ちと業績は著書などから概ね承知してはいたが、あらためてその全貌を眺め渡すことができた。若いころから絵と文の才能の優れていたこと、またそれを楽しんでいたことも分かるし、一方、彼が社会に目覚めて行った過程もご自身の記述によって知ることができる。彼は社会の動きと自分の足跡を残すことに早くから執着し、その衝動に駆られてていたようにも見える。
労作『日本のすまい』全3巻をテーマ別に構成したパネルは迫力がある。西山氏は現代の住居計画を先導し牽引してきた人物であることは間違いないが、一個人が60年に亙る日本社会の姿をこれだけ克明に記録するとはほとんど信じられないほどの力だ。後世に伝えようとの使命感からか、あるいは彼自身の喜びのためか、追われるように息つく間もなく記録と著作に没頭している。
他界されて6年半、残された著書30冊余、写真10万枚、手描きの図やスケッチも無数、それ自体が過去100年間の日本住居を語る絵巻物である。ただこの余りにも膨大な資料の山に弟子たちは一時途方に暮れていたようだ。しかし、直ちに「西山夘三記念すまい・まちづくり文庫」を設立して営々と整理を進められたのには敬服する。西山も怪物だが、この整理作業に手弁当で当たられた方々もまた偉大である。しかもこれはなお当分続くであろうが、これなくしてはこの貴重な記録も日の目を見ないところであった。価値ある宝があったからこそ、これを世に出さねばならないとの責任感あるいは義務感からのエネルギーであったろう。
さらに今回の107枚の展示パネルづくり、これもまた見事だ。コンピュータを駆使して初めて可能になったとはいえ、その写真の選択、レイアウト、説明文など、学生諸君や一般人向けにも実に適切である。著書を通じて一応は承知しているつもりの内容ではあったが、本では全て西山氏自身の手描きの図で示していたものを、パネルには彼の実写した写真を添えて構成している。生の写真と拡大したパネルで見る迫力は圧倒的で、戦前・戦後の流れが歴史性・地域性・階層性という明確な視点をもって示されているだけに、単なる過去の姿の展示を超えて、見る者に社会の動きを考えさせ、知らず知らず住宅問題に引き込まれるのである。
スライド350枚を選んで映写した姫路工大松本滋教授の解説は、若い学生たちにも解りやすい言葉で的確そのものであった。最後に福山市立女子短大住田昌二学長が西山氏の人生について明快なコメント、戦中期は住宅計画学確立を指向し、戦後復興期は住宅政策批判、高度成長期にはやや時代の空気に流されつつ京都計画など都市住居の構想計画、そして退官後の晩年には多くの大学からの誘いを断ってまちづくり運動と著述のまとめに専心された。社会の問題の渦中にあってその方向性を明示された姿は偉大である。
住居研究者のみならず、建築・環境を学ぶ卒論・修論学生なども必見の展示である。

著書の編集に携わって
礒崎好子(元勁草書房勤務)
私は編集者生活を30余年間過ごしたので、数多くの人々と出会い、仕事をとおしてさまざまのことを学ぶ機会に恵まれた。中でも比較的仕事量の多かった西山先生からは長きにわたって貴重なサジェッションをいただくことになった。
西山先生との出会いは、早川和男氏のご紹介によるものであった。武谷三男・星野芳郎編著『自然科学概論』(全3巻)の熱心な読者であった氏が、星野先生と昵懇になっていて、『概論』につづいて企画された各論シリーズ『科学論・技術論双論』に「建築論」(後に『空間価値論』として出版された)の執筆を依頼することになった。しかし早川氏は、スケジュールがいっぱいでこの仕事にすぐには取りかかれないが、この企画の趣旨にふさわしい本として、当時入手困難であった西山先生の論文集『国民住居論攷』を推薦してこられたのである。さっそく検討させていただいた結果、相談のために西山先生を訪問することになった。やがて、所用で出張する早川氏に同道して、開業間もない新幹線に乗って京都へと向ったのである。ご案内された所は京大病院の病室であった。胃潰瘍とかで少し前からいらっしゃった。病院の方がゆっくりできるからとのことでしたが、私はこういうことになっているとは露知らず、初対面に持参した手土産がかさばらないもので調達したチョコレートの詰め合わせであったので、差し出す時に言い訳をしたことを思い出す。その時の先生の印象は、病気のせいか余りお話しされなかったが、気難しそうで、とても近寄りがたい存在でした。この第一印象は、私にとって最後まで変ることがなかった。
この時の訪問では、いずれ退院されてからと、早々に辞することになったが、そうこうしているうちに、絹谷祐規助教授の遺稿集出版の依頼が舞い込んできたのである。絹谷氏は西山研究室の第一人者で、将来を最も嘱望されていた研究者であったが、64年9月、旅行中のオランダで不慮の事故に遭い、追悼のために遺稿集の出版が計画されたのである。一周忌に向けてのスケジュールの厳しいものであったが、研究室の協力が得られるというのでお引き受けすることになった。原稿を受け取った時すでにタイムリミットになっていたから、工場近くの旅館に長期間缶詰になって校正に当たることになった。私はもちろん初めての経験であったが、研究室からは世話役の上田篤氏と住田昌二氏らが応援に駆けつけて下さった。この時の上田氏は、すべてにわたってスピーディにビジネスライクに事にあたられた。氏のご協力がなかったならば納期に間に合わなかったかもしれない。遺稿集のタイトルは『生活・住宅・地域計画』となり、著者の研究範囲を網羅していた。この本の「序文」と「あとがき」を西山先生が書かれていて、私はこれを読んで遅まきながら先生を深く知ることになった。
さて、前出の『科学論・技術論双書』の出版は軌道に乗って点数を増やしていったが、西山先生の『国民住居論攷』の双書収録の件は立ち消えとなってしまい、全4巻の著作集に昇華することになったのである。著作集は、以前から先生ご自身で構想を固めておられたようで、会社の企画会議をパスすると、まもなく第1巻の原稿が届けられて、すぐに取りかかることができた。もちろん早川氏には、先生とのパイプ役として最後までご協力をいただくことになった。
こうして西山先生との長いおつき合いが始まった。
西山著作集は絹谷遺稿集に続いての仕事であったが、不覚にも印刷の発注をする際に先生との打ち合わせが十分でなかったために、校正をめぐってトラブッてしまった。それは、組み版の工程で図版と本文との関連を意識し過ぎたために視覚的な適性を欠いているということで、一部組み替えが出てしまった。社内の従来の仕事ではなんら問題にならないことで、現在のようにコンピューターがあれば容易に解決できる問題であったが、活版では制約が多くて苦い思いをした。先生にはご迷惑をおかけすることになってしまったが、このトラブルで私たちは、図版のレイアウトについて先生から貴重なレクチャーを受けることになった。その内容は、空間の採り方を建築の基礎に学べということであった。本作りと建築との共通点が認識されたりして大変有益であった。そこで従来の詰めこみ主義は改善されつつ作業は進展した。(以来、私は、先生から学んだレイアウトの手法を「西山方式」と称して、密かに他の仕事で実践するようになった。おかげで社内の誰よりも見栄えのする仕事ができたと自負している。)しかし、レイアウトの問題は解決をみたものの本文では徹底して朱筆が書き込まれていた。
これらの朱筆は、細かい字でぎっしり書き込まれていて容易には判読できないことが多かった。熟語が仮名交じりで書かれていたりするので、慣れない人や内容の解からない人には判読できないのである。大量にわたる場合は原稿用紙に写し替え、字数もきっちり整理して再校に回すことになる。この作業は時間を取られるので社内ではできず、いつも自宅で行うことになった。制作部の要請で原稿段階でのチェックを再三申し入れたが、進行中に新たに発見される資料の差し替えなどがどうしても出てきてしまう。著作集は全4巻であったが、巻を追うごとに少なくはなったものの、こういう仕事はストレスがたまる。私もこのころ胃の具合を悪くして1ヵ月ほど入院している。コンピューターに取って代わった現在ならいとも簡単なことを、西山先生も私も早く生まれてきたことを悔やむしかないようだ。曲がりなりにもゴールできたのは、尊敬する先輩編集者の次の言葉があったから。「著作集の編集はその人の学問大系を知る絶好のチャンス。そういうチャンスに恵まれた人は幸運だ。」
二つ目は21世紀関西グループの共同研究『21世紀の設計』(全4巻)であった。この企画では専門のデザイナーが参加されておられたので、私はそのご指示に従って作業をすることになった。先生は総監督を務められた。
三つ目はライフワークの『日本のすまい』(全3巻)であった。この本は日本の住まいの百科全書としての性格をもっていたから、絵図が豊富に挿入されることになって、単行本では余り行われない割り付け用紙を用意して周到に進めることになった。だが、雑誌と違って紙幅の枠がないから字数の計算も甘くなってしまい、割り付け用紙の効用を十分に発揮することができなかった。第1分冊ができ上がって、取り次ぎ店に見本が届けられると、当時としては、珍しく丁寧な造本と評判が良かったそうだ。しかし、この企画の進行中に社内では機構改革があり、第二次オイルショックの追い討ちを受けるなどして出版状況が急速に悪化した。製作費の高騰で印刷部数の削減や印刷所の変更があったりして、仕事は目に見えてやりにくくなってしまった。残念ながら西山先生でも特例は認められなかったので、私自身は不満でならなかったがなんとか完結を見ることができた。
以上、主な仕事の一端をご披露することになったが、他にも先生関連の企画が並行していたから、先生とは頻繁に連絡を取っていた。私は電話で用件を伝えるが、先生からのそれはハガキか封書と決まっていた。封書は分厚いから拝見するのに校正と同様緊張する。お目にかかった時には何もおっしゃらずに手紙で苦言を申し越されたりされるので、克明に目を通さなければならなかった。
思い出されるのは、西山先生が若い人々を非常に大事にされていたことである。論文の中でも調査の協力者や共著者のお名前をないがしろにされることは決してなかったし、事後の研究まで追跡されて赤字を入れられた。私は校正の際にそれを見ていたが、世間ではこういう点を配慮しない人がいて、時々告発事件が起きていたけれども、西山先生には無縁であろう。この姿勢は先生のヒューマニズムの現れと見られるが、研究室のメンバーが先生を畏敬する原点もこの辺りにあるのではないかと推察している。