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「建築史ノート」(1948年)が私の人生を決めた
蓮仏 亨(葛椏s建築事務所相談役)
トピック 父の思い出 そのL
西山勝夫(夘三の長男)

「建築史ノート」(1948年)が私の人生を決めた
蓮仏 亨(葛椏s建築事務所相談役)
若手の方々からの寄稿を読ませていただいて、私は西山先生にその何倍もの期間にわたってお世話になってきたことに驚きました。そこで、精根こめて記録をたぐり指導をうけた事項を振り返ってみました。始めの原稿は長くなり1万字を越えましたが、あらためていくつかの回想にしぼり直した次第です。
知恩院山門下、向かって左側に「解放戦士の墓」があります。1957年に民主勢力が建立し、設計は先生がなされましたが、予算不足から材料は粗末なものでした。1992年になって醵金が相当集まったので改装工事をして立派になりました。2年後そのお墓に先生も合祀されようとは夢にも思っていませんでした。合祀には手続きが必要であり、京都革新懇常任世話人である私が、ご子息勝夫さんに手伝っていただいて作成しました。京大職員組合委員長時代や私が出会ってからのご経歴を感動こめて綴りました。
私は、1949年に新制大学第一期生として、京都工芸繊維大学に入りました。旧制水戸高校出の友人が、京大に西山夘三という先生がいて『建築史ノート』を出したと教えてくれました。1948年発行のこの本は、建築の思想、建築発展の歴史、戦前の建築運動などで構成されています。鳥取の田舎から京都に来て、この新しい風に当たった驚きは言葉にいい表わせません。戦前の偽りに満ちた歴史・教育で育ち、戦後の混乱期にあった私にとって、西山先生への畏敬の念はこうして生じたのです。
工芸繊維大学へは腰掛けのつもりでしたが、入学してみると学生会の運営に問題を感じました。専門学校時代から引き継がれた「御用学生会」の大学当局との馴合いが目立ちました、新制大学らしい主体性をもった新自治会を、1年次の3月末に設立総会を開き、議長役に選ばれました。この役員としてのの責任と、全学費をアルバイトで稼がねばならない苦学生の生活は、京大入試への再度の挑戦を許しませんでした。しかし大学はちがっても先生への畏敬の念はますますつのり、著作を借りて読み、また求めて読む、講演会にはかならず行きました。とくに機会を造ってくださった「日本建築家集団=NAU」京都支部の活動には、ほとんど参加しました。京大同学会(学生運動組織)から委託された「原爆展」のパネル作成にも参加しましたが、先生が資金調達から企画デザインまで中心となってかかわられたことを後で知りました。
1951年11月、京大天皇事件(来学した天皇に同学会が公開質問状を提出しようとして阻止された)の直後のころ、多賀村(現在の京都府井出町)への農村調査に参加しました。浄土寺町にあった吉野正治氏の下宿に10人ほど集まって打ち合せをしました。会がおわるころ先生がみえ、学生からどうして調査をするのかという質問がでて、一同は先生の言葉を待ちました。「調査の仕方を調査してくるんですよ…」と何気なくおっしゃられて、学生に考えさせる教育の一端に触れることができました。
故郷にもどり公務員となって、私はすぐに自治体労働組合の執行委員に選出されました。ほどなくNAU鳥取支部をつくり、民科=民主主義科学者連盟鳥取支部の事務局長の任につきました。翌1954年、西山先生たちは大挙して鳥取県農山漁村調査にこられました。私は組合の都合で参加できませんでしたが、調査対象地域として、私の生家の付近が選ばれました。生家には石原正雄、扇田信、絹谷祐規、吉野正治の諸氏が泊まられました。
当時、鳥取大火の後の市の復興局には、昭和3年卒の池口凌局長、先生と同期の遠藤省一課長がおられたのは奇遇でした。京大卒業生とこの世界での先生の位置と影響力をジワーッと感じたものです。私自身も学生運動をしていたので、相手先に思想調査されるなど就職難の時代でしたが、困りはてた恩師の高原道夫氏(昭和15年卒)が京大建築研究会(当時の代表:棚橋諒氏。昭和4年卒)に依頼してくださり、やっと鳥取市復興局に就職することができたのです。そういう時代でもありました。鳥取の農村調査の成果は、民科の機関誌「教えることは学ぶこと―」に発表されました。民科鳥取支部長の山崎弁護士への訪問報告には私も事務局長として同行しました。先生は三高生時代、山崎氏とは一年違いで学生寮に入りましたが彼は寮長だったのです。当時の記念写真を持ち出してきて、元寮長は西山先生は写っていないと問われましたが、先生は背景の寮の屋根に登っているのが私ですと答えておられました。著作『日本のすまい』370ページの学生寄宿舎のまとめでは、何回も山崎弁護士に問い合わされた様子でした。このような信頼関係にささえられて、山崎氏には仲人をつとめていただきました。
労働金庫への住宅建設融資ができるよう大蔵省が認可したことで、京都労働金庫の要請をうけて、吉野正治、三輪泰司氏(ともに29年卒)が「京都住宅相談所」なるものを発足させました。これがいまの「京都建築設計事務所」の原形です。鳥取調査を機会に、私は西山先生が指導する鳥取県船岡町の体育館の設計管理等をなにかとお手伝いしていましたが、住宅相談所を閉鎖する話になったのを機縁に、鳥取グループを併合し強化するとして京都建築研究所と改名し再発足しました。三輪氏は修業のために東京に移り、私は満5年勤務した公務員を1958年に退職して、同研究所の同人となりました。やがて吉野氏も、奈良女子大へ移った扇田氏の後任として鹿児島大に赴任しました。この時点で研究所は葛椏s建築設計事務所となり、1960年から私が代表取締役に就任しました。
この間、先生は私たちの動きを見守り指導してくださいました。たとえば、鳥取信用金庫本店のの設計管理を私たちが受注し、先生に監修をお願いしました。しばしば現地に来られました。家族ぐるみの海水浴や大山原野旅行はこの時代の副産物です。8ミリカメラの記録は、正月恒例の研究室関係者新年会でも披露されました。
ご自宅の増改築のお手伝いもするなかで、成長期のご子息とも仲良くなりました。
1992年8月に京都の美術家集団「新美」は、宇治市黄檗にある自衛隊構内に入れてもらって、絵画スケッチと写真撮影会を行いました。この敷地は戦後に京大宇治分校とに二分割されたことを思い出して、もっぱら元兵舎を描きました。戦跡を調べておられれる講師の池田一郎氏の話をきいているうちに、はっと思い出しました。さっそく『戦争と住宅』を購入して通読し、この場所は、先生が入隊中3年間をすごされた宇治火薬製造所だったことを確認しました。先生は、私が贈呈した「松林とレンガ造兵舎」に見入っておられました。お返しにか、「一建築学徒の回想」(近代建築所載)の抜き刷りを頂戴しました。1930年より45年の終戦まで、ちょうど『建築史ノート』を執筆されていた時代をうかがう貴重な回想録で、いまも大切にしています。
私のスケッチ画は、よく西山先生の絵にそっくりだといわれます。これも作品をジッと見続けてきたせいでしょうか。ベン描きの手法はそうなのですが、絵具の使い方、彩色は私独自のものですので申し添えておきます。
1988年ころ、積水ハウス創立30周年にあたり同社記念誌編纂室から、西山先生にプレハブ住宅の評価についての論文を依頼できないかと打診がありました。いままで会社主催の講演会など断られたことがあったので、無理だろうと思いつつ相談しましたところ、『日本のすまい』の執筆で残っている領域であり、集めた資料もまだ不足なので積水ハウスにそれを求めたいと、執筆を快諾されました。いま
NPO西山文庫が、同社の総合研究所の一角に寄寓しているのも奇しきご縁といえましょうか。

父の思い出 そのL
西山勝夫(夘三の長男)
家族会議、家族でハイキング
中学生の頃のことと思うが家族の団らんが少ないので定期的に家族みんながそろって家族会議のようなものを開いたらどうかという提案を私がしたように思う。とにかく数年間家族会議が開かれその時のノートも何冊か父は残しておいてくれた。当初は兄弟がお互いの悪口を言いあう場となり悪事が発覚して父が堪忍袋の緒を切らし折角の夕食を交えた場も気まずい雰囲気や叱られ泣きべそをかく者がでる機会になってしまったこともある。しかし、家族会議で家族揃ってハイキングの日を決めたりもした。そうして比叡山延暦寺にいったことが思い出される。
音楽の趣味
父はクラシックのSPレコードを聞く趣味があり昔のレコードの針は竹で出来ていたことや針がなまったときに切る鋏を教えてくれたりした。青少年のためのオーケストラを聴かされこの楽器は何かを尋ねられてもなかなか覚えられない。そのテストが時々やられるのは嫌であったが、大きくなると知らぬ間にクラシックをバックグランドミュージックにして勉強したりするようになっていた。
LPレコードが出るようになるとレコードの収集もするようになった。アンプやスピーカーの品定めはラジオ造りの趣味のあった私が行い父から金を預かり購入しセットする形で段々と充実していった。
また、父はアコーディオン、マンドリン、バイオリン、ハーモニカ等を持っていたが触らせてもらえなかった。しかし、子どもが自由に使えるハーモニカやアコーディオンを買ってきてくれたので兄弟で取り合いになるくらいよく遊んだ時期もあった。ギターやウクレレも買ってもらった。父がキューバへ行ったときはマラカスを買ってきたが機嫌の良いときは自分でもそれで拍子を取ったり振り回しながら特有の格好で踊ったりしていた。
父が民謡好きだと知ったのもある日の昼間父が突然かえってきてこたつに入り機嫌よく大声で謡うことがあり気でも狂ったのかと驚かされたがそれが民謡であった。そのようなことが数回あったように思う。哀愁をおびた稗つき節は印象に残っている謡の一つだ。最近宮崎県の特集テレビをみていると椎葉村がダムのために水没する歴史が紹介されていた。その頃と父が稗つき節をよく謡っていたのは重なっていたのだろうかとふと思った。大学生になってからは民謡の時間というラジオ番組を聞くようになったのもそのせいであろうと思う。
近所のレコード店が毎月届けてくれるようになるとレコード収集のピッチはあがったようでありついでに私の希望も入れてもらったりした。
大学進学
父がいつか買ってきてくれたソビエト科学アカデミー編の「21世紀のレポート」は将来の科学技術の可能性を謳歌していた。私はその夢に触発されてか大学へ行くなら理工系でなくてはと決めていた。
しかし、高校の最初の2年間は体操部のクラブ活動に明け暮れた。3年生になってそろそろ受験勉強に集中しなければと現役を退きマネージャーになったのが、1960年4月である。そのころ安保闘争が急速に盛り上がり我が高校でも生徒大会やクラス討論が日増しに行われるようになった。私もクラス役員として熱心に取り組みデモに行く回数もましてきた。安保条約が国会を通過してからもそのエネルギーは我が高校では途絶えることなく秋の学園祭、卒業記念行事まで続いた。高校生活を楽しみながら勉強もしっかりしようというファイトに燃えていたように思う。その勢いで、夏休みの海水浴を目指して前号に掲載されたようなボート造りにも打ち込めたのだろう。
しかし、父は大学進学のことについてはほとんど何も言わなかったように思う。やりたいことがいっぱいあって進路選択には困ったが特別に父とは相談しなかった。建築も興味があったが親の七光りというプレッシャーをどうするかが問題であった。逃げるのも嫌で悩んだ。そうこうしている内に自分に適性があるかどうかがわかる筆記式適性テストがあることがわかり、夏休みのある日大阪に受けに行った。空間認識が弱いという結果が1、2ヶ月程して届いたので自分は建築に向いてないと結論し対象から消去した。受験先などは家族には全く知らせずに受験に臨んだ。
入学してすぐにボート部の強引な勧誘を受けた。体が小さいからコックスに向いているというのである。父と同じコースを行くことになるのかと一瞬思ったが「泳げないから」と固辞した。
当時は安保闘争の余波が残っておりキャンパスは多数のセクトが先陣を競うように争っていた。東南アジア研究センター設置、政治暴力禁止法案、大学管理法案、自衛官入学など次々と各種課題が学生運動で取り上げられていた。2年生期末試験の時には自治会で試験ボイコット闘争の方針が決まり、自治委員をしていた私は留年になるかもしれないという事態になった。学費のこともあるので、ある夜両親にその状況を説明したが問いつめられたようなことはなかった。結局、試験ボイコット闘争は実行されず留年せずにすんだ。
不勉強がたたって大学4年生の秋に行われた大学院入学試験には失敗してしまった。これをきっかけに大学サークルでの科学技術論の勉強で気づいた工学のあり方を探究する学問を求めることにし、その考えを父に説明し進路変更と大学院進学の援助を求めた。この時も問いつめられるようなことはなかったように思う。卒業と同時に進路変更した大学の研究生になった。無事大学院の試験にもパスし、京都から通うのは大変なことから下宿することにした。はじめて親元を離れての生活であった。このあと大学院3年生の末頃に結婚するまでは、親の仕送りのみでアルバイトもせずに不自由なく大学院生活を送らせて貰った。
結婚
大学院3年生の秋頃、学生時代一緒に活動したことのある女性と幸運にも再会でき交際が深まる中で翌年結婚を約束するにいたった。両親に知らせたところ根ほり葉ほり聞かれることもなく喜んでもらえほっとした。一番結婚が遅くなるに違いないと思っていた兄弟の懸念も私がトップで結婚して吹き飛んだ。京都南禅寺界隈の料亭で双方の親を交えて結婚式の相談もし、親友による実行委員会形式で3月に式を挙げることに賛同してもらえた。父は公営住宅に住むことを勧めてくれたが、収入や時期・場所などの都合で無理があり民間賃貸を探すことにした。新居は四条中新道の木造2階建てのアパートの2階の1K風呂無トイレ共用(外窓は北側のみ)を確保でき約3年半ぶりの京都住まいとなった。
翌年の3月には長女が生まれた。長女はおでこが非常に広く父とそっくりなところがあり両親は初孫を可愛がってくれた。父がアパートをたずねてきたときにはスケッチブックを持参し長女の寝顔を描いたり住み方をメモして帰った。その頃私の大学も大学紛争の嵐が吹き荒れ、やがて私の学部も封鎖され研究どころではなくなってしまい自分の将来も次第に不透明になるような状況であった。
母の癌、父の再婚
1973年、近くの医医に通っていた母がどうもおかしいと大学病院に受診したところ、触診だけでも分かるほどの末期胃癌と診断された。すぐに胃切除の手術が行われたが浸潤・転移が進み余命幾ばくもないということであった。ガンではないことにして家族は母に接することになった。予後の受診は医学部に勤めていることもあって主に私が付き添っていくことになった。通院の際、癌ではないかとしきりにたずねる母に嘘を貫くのは難しかったが母は私のいうことを信じていたように思う。母の話ではこの数年お腹の具合が悪く通院していたという。お腹が膨れてきているといっても薬をくれ心配ないですよといわれるだけであったと聞き憤懣やるかたなかった。年末ぐらいまでしか持たないであろうといわれていたが翌年、父の退職記念行事に参加でき7月まで持ちこたえ、急に意識を失って去った。
母が亡くなって父一人で生活できるかどうか、子どもとの同居の道もあることを含め父と話をした。父はまだやらねばならぬことが山ほどあるのに家で小さい子どもがガヤガヤと騒がしいのは困る、同居はありえないと語った。母が亡くなり1年もしないうちに父が仕事のために再婚するという意思を持っていることを確認した私は父の仕事への意欲、仕事一途の精神の強靱さに驚いた。しかし、再婚相手のあてはないようでその段取りは私にまかされたたような具合になってしまった。そして広原先生や堤愛子さんのお世話で、父は再婚した。それは1976年5月16日、期しくも私の息子が誕生した日だった。
アメリカ留学
1993年7月から1年間のアメリカ留学は、1982年のスイスへの留学時と違って単身赴任である。アメリカでは銃による殺人が頻発している。ひょっとしたら生きて帰ってこれないかもしれないという不安もあり、出発直前に両親兄弟夫婦一族が近所の中華料理店に集まり送別会を開いてもらった。この時、座敷の庭先で最後に水杯をかわし記念写真を撮り握手をして別れたのが最後になってしまった。
思い出がこうして走馬燈のようにめぐった。
幸いにも父は急逝は免れ集中治療室から病棟に移ることができ、持ち前の体力、看病のおかげで、私は3学期末の休暇を利用して1週間弱一時帰国した際に父を見舞うことができた。
父の経過はおおよそ次のようであった。
倒れた日の2月10日は、前々日のわりと暖い日と違い、非常に寒い日であった。父は夕方6時頃帰宅し普段通り食事をし、テレビを見、義妹が持ってきたケーキを食べいつも通りミルクを飲んだ。そして、10時過ぎ入浴間もなく「頭が痛い…」とあがってきていつもの椅子に座り「さむい、さむい」「頭をやられたかも」といった。母が「救急車を呼びましょうか」と尋ねたのにも「呼んで下さい」としっかり応えたという。救急隊員は「金属バットで頭をなぐられたよう」「右頭から肩にかけて痛い」という父の説明を聞いて、父を椅子ごと外へ運び出し担架に乗せ変えた。救急車には一人ということで母が添乗した。高野橋付近で嘔吐し意識喪失したようである。午後11時半過ぎ京大病院についた。入院時のCTスキャン検査結果は左側各所広範囲に蜘蛛膜下出血、右側頭葉に脳内出血があり、肺炎にも罹っており、生存確率は低く直ちに身内を呼ぶようにということであった。高齢で脳がかなり萎縮していたため大出血しても脳実質の急激な圧迫を免れ、救急車内で意識喪失に至ったという説明であった。
2月15日には、文章をノートに書いた。父が晩年最も精力的に取り組み、気にしてきた「町づくり」という字を書き読みとれた(レター7号に掲載)。医師によれば学習動作の現れに過ぎないという説明であった。約2週間後の主治医から親族に対するインフォームドコンセントの内容は厳しく見通しは極めて暗らかった。
母の話では昨秋、在米中の私に父が手紙を出すときは随分気にした様子で投函したかどうか、義母に何度も確認を繰り返していた。父は迫り来る「脳力」の低下に追い越される前に、もっと何か伝えておきたかったことがあったのではないか。なぜもっと早くもっと丁寧な返事を出さなかったのかと悔やまれた。
父を見舞い、病院の方々や三村先生、広原先生などにお会いしていただき、私はお礼もそこそこに今後のことを厚かましくお願いして3月27日、後ろ髪を引かれる思いで米国に向かった。それからしばらく経った4月1日、早朝長女より父が亡くなった知らせが入った。留学先の大学の都合で葬儀にはとうとう帰れず彼の地で冥福を祈った。