ここでは一部を掲載しています。
西山記念文庫NPO化の波紋拡がる
〜農村建築研究会50周年記念事業に共催団体として参加〜 広原盛明
「山あて」のあの山この山
石田頼房(東京都立大学都市研究所客員研究教授)

西山記念文庫NPO化の波紋拡がる
〜農村建築研究会50周年記念事業に共催団体として参加〜 広原盛明
今から半世紀前の1950年1月20日、東京新文学館で第1回総会を開いた「農村建築研究会」が今年で発足50周年を迎え、さる2000年1月22日に東京の建築会館で記念事業シンポジウムが荻原正三先生を実行委員長にして盛大に催されました。そして光栄にも、NPO法人としては生後僅か2カ月の西山記念文庫が共催団体として参加する機会を与えられました。
農村建築研究会は、新日本建築家集団(NAU)農村建築部会を前身として発足した農村建築研究者の交流の場ですが、その後の数多くの共同調査や共同研究を通して、農村建築や農村住宅研究に限らず建築計画学の理論的確立を促したきわめて重要な研究組織です。発足当初の中心メンバーは、現在、文庫会員である青木正夫・浦良一・青木志郎(当時はいずれも20歳代)や佐々木嘉彦・浜口隆一などの諸先生で、初代会長は今和次郎先生でした。西山先生は1952年度の、文庫会員の石田頼房・下河辺千穂子先生は1956年度の運営委員として参加しておられます。
こうした輝かしい歴史と伝統を反映してか、当日は発足当時の諸先生が多数参加されてシンポジウムもパーティも大いに盛り上がり、その中で西山記念文庫のNPO法人化も大きな話題になりました。定年を迎えた名誉教授クラスの先生がいずれも研究資料の保管問題に直面しておられるからです。すでに「今和次郎コレクション」の整理に取り組んでおられる荻原先生、これから「吉武(泰水)文庫」の設立を考えてみたいと話された浦先生、「吉阪(隆正)文庫」の準備を始めようとしている重村先生、そして「高山(英華)資料」をどうしようかと悩んでおられる石田先生など、多くの先生方が西山記念文庫の今後の行方に大いに関心を持っておられます。
NPO法人西山記念文庫の存在意義を少なからず感じた一日でした。

「山あて」のあの山この山
石田頼房(東京都立大学都市研究所客員研究教授)
「西山先生と私」という連載欄への執筆を依頼されて、なかなか手が着けられず延び延びになっている間に、とうとう催促を受けてしまいました。なかなか取りかかれないでいたのは、結局他事にかまけていたということに過ぎないのですが、理由がないわけではありません。考えてみますと、「西山先生と私」の間には、研究上で直接のご指導を受けたというような機会もほとんどなく、接点はあまり多くないのです。
その少ない出会いの中から、『住民と自治』に1994年4月に書いた「西山先生を偲ぶ」で「北海道の農建旅行での出会い」「構想計画論の都市計画誌への発表」「住民と自治のための対談」を書いてしまいました。それ以外にあげられる出会いといえば、西山先生が編者をなさって汐文社から1971年に出された『講座現代日本の都市問題』第2巻「都市計画と町づくり」の執筆者に加えていただいて、「革新自治体の都市計画」という章を書いたことぐらいです。私が、西山スクール中心の執筆陣になぜ加えていただいたのか、その辺の事情は良く知りません。この本を書くときには、本の最後に掲載されているまとめの座談会「まちづくり論」(これには、私は欠席)の他に、あらかじめ執筆者が集まって、それぞれの執筆内容を話し合う会があり、西山先生ももちろん出席されて議論をリードされたと記憶しています。その会では、座談会でも中心的な話題になっていますが、この巻の表題とも関わって「都市計画」と「町づくり」の概念の相違や町づくりの展望が大いに議論されていて、私には刺激的でした。革新自治体の高揚期に行なわれたこの議論は、それから20数年、革新自治体の退潮はあっても、現在までの都市計画の大きな流れを見通していたように思います。しかし、私が西山先生のお考えや方法を知り学んだのは、このように直接的にお会いしてばかりではなく、むしろそれ以上に、ご著書をとおして、あるいは西山スクールの私と同年代の人たちとの交流を通じてであったように思います。例えば早川和男さん、三村浩史さん、広原盛明さん、三宅醇さんなどとのおつきあいです。
さて、いま私は、Eika Takayama: the greatest figure of Japanese Urban
Planning in the 20th Century というタイトルで「高山英華論稿」とでもいうものを書き、この夏にヘルシンキで開かれる国際都市計画史学会(IPHS)の第9回会議で発表しようと考えています。なぜいま、高山英華論稿を書こうと思い立ったかといえば、もちろん高山先生が昨年お亡くなりになったことが直接のきっかけです。しかし、英語でというのには別の理由があります。もともと都市計画理論・技術の国際交流の中で、日本はブラックホールだ(吸い込むだけで自国の実態を外に伝えない)などと批判されたり、あるいは密かに自己批判したりしているのが実態で、私も前から気になっていたからです。欧米から日本の都市や都市計画に興味を持ってやってくる若手研究者が知っている日本の「都市計画家」は、丹下健三や芦原義信であり、あるいは磯崎新や黒川紀章なのです。それは、これらの建築家の作品や著作(都市論も含む)は英語で紹介されることが多く、ブラックホールから流れ出すわずかの情報として注目され、あたかもそれが総てのように考えられているからなのです。
しかし、日本都市計画界の実状、特に日本で都市計画を推進してきた人物や理論が、西山先生を含めて、ほとんど欧米に知られていないことを、ただ嘆いているばかりでは仕方がないことは言うまでもありません。そこで、私も欧米から来る研究者に、石川栄耀・高山英華・西山夘三などの、欧米では知られていないが日本都市計画、住宅政策・住宅地計画にとって鍵となる重要人物について話をし、興味を持つてもらうよう努めてきました。その結果は、すぐに現れるわけではないのですが、西山先生については、私の所に4年近くいたドイツ人女性研究者で、西山記念文庫にも資料の面でお世話になったCarola
Heinさんが、"Uzo Nishiyama −the 'god-father' of Japanese housing
and planning" というテーマでアメリカの建築史研究者協会(The Society of Architectural
Historians )の1998年年次大会で口頭発表してくれました。また、彼女と二人でドイツのDie Alte Stadtという雑誌に発表したJapanische
Stadtplanung und ihre deutschen wurzelnという論文では、石川栄耀がドイツのタウトやフェーダーについてどう論じたかを書きましたが、あわせて西山先生のフェーダーに対する評価についても触れています。
私にとって、今度の「高山英華論稿」は、そのような流れの一つなのです。この発表は、まだ提案としてアブストラクトを会議事務局に送った段階ですが、実はそのアブストラクトで、結論部分では、高山英華を、西山夘三という非常に対照的なもう一人の偉大な研究者と対比し、あわせて20世紀の日本都市計画の特質にも触れると書いてしまったのです。そんな大それたことが、6月末までにきちんと書けるとは思えませんが、20世紀の日本の住宅政策・住宅地計画と都市・地域計画を、人物をとおして語るとすれば、このお二人は欠くことが出来ない人物であることは誰も異論のないところでしょう。これに、造園の北村徳太郎、土木の石川栄耀など数人を加えれば、そこまで私はするつもりはありませんが、人物による20世紀日本都市計画史が書けるかもしれません。だいたい、日本の都市計画史研究・都市計画論研究の中において、「人物論」あるいは「ある人物の計画理論」に関する研究が、欧米に較べて極めて少ないのです。都市計画学会の都市計画誌が、だいぶ前に「都市計画Who's
who」という連載をやりましたが、一人について半頁という短いものでした。ややまとまったもので思いつくものは、渡辺俊一さんの「池田宏」「片岡安」、昌子住江さんの「太田園三」、私と昌子住江さんの「石原憲治」、私の「森鴎外」など極めて限られています。都市計画人物論あるいは人物をとおしての都市計画史論にいささか興味を持っている者として、また紛れもなく高山スクール(というものがありとすれば)の一員として、「高山英華論」はチャレンジをしてみたくなるテーマなのなのです。そして、西山先生を対比する人物としてとりあげることは、西山記念文庫から「西山先生と私」というような原稿を頼まれるという点からみて、許されることかと思います。
それにしても高山先生と西山先生は、実に対照的なお二人です。著作という点で見ても、対談集や講演記録などの他にはほとんど著作・論文といえるもののない高山先生を、私は、IPHS会議へのアブストラクトのなかで理論家ではないと書きました。少なくとも、高山先生は理論で日本都市計画界をリードしてきたのではないと思うのです。これに対し、西山先生は、住宅計画における「食寝分離論」にせよ、都市計画における「構想計画論」にせよ、間違いなく理論で学会をリードした理論家でした。弟子たちが整理に困るほどの著作・原稿メモ類と収集した膨大な調査資料・文献は、いわばその証です。それを集めた西山記念文庫は、今後のこの分野の研究の理論的発展に寄与し、西山先生は没後も住宅政策・都市問題の研究を理論的にリードしているのです。一方、高山英華先生が生前に寄贈された文献・資料は段ボールに詰まったまま倉庫に眠っているのも(これは弟子どものふがいなさで申し訳なく、残念です)、極めて対照的です。高山先生は中央官庁に深い関係をもち、都市計画中央審議会など数多くの審議会を通じて国の都市計画政策形成に深い関わりをもたれました。また、東京オリンピック会場計画、札幌冬季オリンピック会場計画、八郎潟干拓地新農村建設計画などの数多くの国家的都市地域計画プロジェクトに推進する立場で関わってこられました。一方、西山先生は、中央の都市・住宅政策形成にあまり深くコミットせず、常に地方自治の立場・住民の立場から発言し行動されてこられました。このように対照的で、しかも、それぞれの立場でこの分野を広くカバーしてきたお二人ですから、そのお二人を比較しつつ論ずれば、日本の20世紀都市計画の特質が広く論じられるのではないかと思うのです。
とまあ、こう書いてくると高山先生の「君、僕と西山君は、そんなには違いやしないんだよ。ただ、僕は何しろ(日本都市計画界に)御神輿として担がれちゃったんだから」とおっしゃる声が聞こえてきそうです。「自分は御神輿だった」というのは、高山先生がご自分に対してよく使われた言い方ですが。私は、高山先生は御神輿というより、日本都市計画界の山あての山だったと考えていて、今度のIPHS論文の中でもこの点を強調したいと思っています。「山あて」は、日本の古くからの都市デザインの方法の一つで、都市の町割りをするとき、主要街路のビスタを近傍の目立つ山に当てる方法です。御神輿は、担ぎ手の都合で、御神輿の意志とは無関係にあちこちへ揺れ動いていきますが、山は動きません。山あての山は、見る方向によってその姿は変わりますが、まさに聳えて動かないことで目標となりうるのです。
西山スクールの人たちからは、西山夘三先生の研究指導は厳しかったと、よく聞かされます。これも、弟子どもが放任されていたと感じてきた高山英華先生とは対照的です。しかし、西山スクールの一員ではなく、直接のご指導を受けなかった私のような者から見ると、西山先生も間違いなく山あての山でした。高山先生は、私に対して「君はいつも僕の左にいるな」と評して下さいました。おそらくその位置どりは、西山先生をもう一つの山あての山にしていたせいであろうと思っています。